見出し画像

世界よ美大になれ

僕が高校生くらいまで受けてきた学校教育や、日本社会に対して思うこと、それはあまりに「画一的である」ということだ。

こう言ってしまうと、その意見自体が酷く没個性的でありふれているように感じる。しかし、そういった意見自体がもはや聞き飽きたと感じるくらいに言語化されているということ。つまり「画一的だ」「没個性的だ」「窮屈だ」ということを、その社会に暮らす人自身が言語化できてしまうという点にまず問題があるのではないか。

何故なら、

いったん抱いてしまった人間に対する絶望感、人間とは画一的でありつまらないという確信は、すなわち隣にいるこいつも、同じクラスのこいつらも全員同じでつまらないに違いない、という思考プロセスに陥るからだ。

あるいは、そもそも「違いを面白がる」という発想自体を失ってしまうのかもしれない。

対して美大においては、それぞれがそれぞれ異なる作品を作っている→美大生は皆何かしら個性的な作品を作っているに違いない→こいつのことは知らないけど、なにかスゴい作品を作っているかも、きっとなにか個性や魅力があるに違いない、という思考プロセスが根底にあると感じる。
これは、人間と同時に本人の分身的な存在である「作品」が存在することが大きいのではないかと思う。

これはある種のバイアスとも言えるのかもしれない。バイアスと言うとネガティブなイメージだが、これは比較的ポジティブなものだと思う。

それは、個々の違いを度外視した「みんな仲良く」的思考とも異なる。例えばはじめはお互いに無関心でもよくて、偶然何かしらの交流が生まれた瞬間に、「何かあるはずだ」と理解しようとするための準備があるということ。コレはつまり「寛容性」とも言い換えられる。

しかし、美大のそのような価値観においては、いい作品を作らなければ、あるいは作品をつくらない人間はゴミであるという思考回路になる恐れがある。
つまり作品を作る上での人間性を無視し、作品の評価=人間の評価となってしまう。これは作品を通じた人間理解という点では、必ずしも悪とはいえないが、それに偏って人間を見つめることを忘れるのは悪だ。

それを防ぐために、「作品」にあたる部分を、「人間性そのもの」にハードルを下げる必要がある。

それは、「人間とは多様であり、誰しも何か魅力を持っているものである」→つまり隣のこいつも、同僚のあいつらもきっとどこかしら面白いはずだ、という思考回路だ。

それを実現するためには、教育をはじめ様々な社会的なシステムを変える必要がある。
美大のようにそれぞれが主体的に何かを創造したり、何かしらの主張ないし個性があるのだ、という確信が必要だ。

美大における「作品制作」のような、自分の主体性を何かしらの形で外部化する行為を、様々な側面から行うべきだ。
それは絵を描くことや詩を読むことかも知れないし、歌を歌うことかも知れないし、スポーツかも知れないし、勉強かも知れない。
そして、アウトプットされたものやそのプロセスに対して「ディスカッションする」ことが、何よりも大切だ。お互いがお互いの作品を講評し合ったり、あるいは同じ目的の実現のために話し合ってもいい。なぜなら、ぶつかり合うことはその行為自体がすべての人間の違いを認め、違ったままに存在する事を肯定するからだ。


なぜ「違い」に拘るか、は冒頭で述べた通りだが、さらに根本的なことを言えば、僕自身がそれを人間関係で悩まない唯一の方法だと考えているからだ。

全員と仲良くなることは無理というのは前提としてあることだが、その上で人間に悩むことのほぼ全ては「距離感」の問題だ。

第一印象が最悪の人間でも、3年付き合えば印象が変わることがある。始めどんなに仲が良かった人間でもずっと一緒に居ると嫌な部分が見えたり、考えの違いが可視化されたりする。好きになったり嫌いになったりを二週間くらいのサイクルで繰り返したりする。別居したら逆に仲良くなる夫婦もいる。街で出会う知らない人間の見え方なんて、偏見でしかない。

それらは全部「距離感」の問題だと思う。自分の気持ちや相手の気持ちをどれだけ思いやって、どれだけ現実的な問題として理性的に対処できるか。

それを実行するには、希望が必要だ。人間の多様性を信じ、果てしない人間関係のネットワークの中で自分の居場所を確保し続けることが出来るという、たしかな希望だ。

それは、美大に漂う多様性への期待感、寛容性なのではないか。


以上が美大に四年通って思ったことの一つです。あくまで僕個人の意見です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?