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受動的、能動的

中村佳穂の新譜を聴きながら、センチメンタルな気持ちになって久々に文章を書きたくなった。僕の「自信」というものはとにかく些細な人との会話や、小さな出来事に左右されるようで、今日はそれをどちらかというと失う感覚に陥り、駅を出て自転車に乗ろうという瞬間に色々な感情や考えが込み上げてきた。特に今日、一つの目標として考えていたアートアワードの授賞式(自分は選ばれていない)があり、かつそのアワードが今年は募集を取りやめるという事実が、今のこの感情に影響している気がする。

創作者としての自信を失った時、自分は無意識に受動的であろうとしていることに気づく。例えば今日みたいに、自転車に乗って音楽を聴いて感傷に浸ったり、あるいは時間潰しのパズルゲームをやったり、何も考えずにYouTubeを観たり、そういったことを無意識に求めてしまう。同時に、そんな自分を憐れむ気持ちや、少し投げやりになる気持ちになったりする。また、そのような「消費者」としての自分を、普段から無意識に見ないようにしているのかもしれない。
僕は新しいものを買うのが好きで、特に買ったものが届いて、それを開封して、最初に使ってみる瞬間が好きだ。そのようなタイミングで、なんて自分は完成された「消費者」なんだろう、と気づいてしまう時、それが原因で少し落ち込むことさえある。自分が消費者であることなんて、当然のことであると頭ではわかっているのに、妙な意識が引っかかって常に気になってしまうのだ。それが自分は「創作者」、つまり、与えられたものを消費して喜ぶのではなく、能動的に何かを生み出す人間でありたいという意識なのかもしれない。もちろん、それだけではない気がするのだが。

ところで、最近はネットやテレビから情報(時にニュース)を摂取することに嫌気がさしてしまい、あまりリアルタイムの情報をチェックしていない。嫌な理由ははっきりとわかっていて、それは誰かに「意図的に」編集された情報に自分の感情や考えを冒されたくないということだ。
とはいえ、人伝に何かを聞いたり、教わったりすることは当然ながらそういったプロセスを経ているし、自分の目で何かを見ることさえ、バイアスや脳の機能に囚われた解釈しかできないという意味で、編集された情報であるということは、わかっている。
自分は「創作者」でありたいのだが、創作行為は純粋なアウトプットではない。完全にピュアな「自分」というものは存在しないし、数々の受動的な行為の積み重ねから、創作物は生まれてくるはずだ。それはわかっている、はずである。

文章で書くと単純で明らかなことに思えるが、その状況がなんとも言えず、自分の中に薄い膜のような存在としてチラつき続けている。特に、創作者としての「自信」を失った時、そのような自分の受動性が目について、果たして自分とは?、という果てしない暗闇に迷い込んでしまいそうになる。そんな予感をセンチメンタルな音楽で紛らわしながら、夜の心地よい風に身を委ねていた、そんな帰り道だった。

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