見出し画像

【映画レビュー】アングスト/不安 評価:△

http://angst2020.com/

※本文は全て無料で読めます。少しでもお役にたてれたら幸いです。ご支援いただけるとなお嬉しいです。

■新宿のステーション・バー、ベルグへGo

東京都の発表によると、昨日のコロチャンの感染者数がなんと124名の新記録を達成。いよいよ第2の緊急事態宣言も見えているそんな中、都内、まして歓楽街に出かけるのは凡そ正気の沙汰とはいえまい。で、本日公開された『アングスト/不安』だが、なかなか好調の出だしのようだ。仕事帰りの筆者が18時半くらいにふぅふぅ言いながら歓楽街のど真ん中の映画館、シネマート新宿に駆けつけたときには19時の回はすでに満席。最終公演の21時の回も9割ほど埋まった状態であり、ギリギリでチケットがとれた次第だった。聞けば次の日の興行も満席の回があったとか。恐れを知らぬ狂人、否、(私も含め)熱心な映画ばかの多さに呆れる次第であった。

さぁて、映画の上映まで2時間以上はある。どう時間を潰そうか、悩みどころである。そこは天下の新宿である。伊勢丹メンズ館やらビッコロやら、紀伊国屋やら、周囲には腐るほど飲食店もあるわけで。それこそシネマートの近所には寄席のメッカというべき末広亭まであって、その気になりゃ落語も楽しめる。まぁ暇を潰そうと思えばいくらでも選択肢がある。映画だってある種の暇つぶしだ。で、本屋でぶらぶらしたり、メンズ館で絶賛セール中のJIL SANDERとかにお邪魔して、試着するだけして泣きながら御暇した(セールでもばか高けぇので)。結局まぁ時間を持て余した。雨降ってる・・・・・・一息つきたい、どっかでいっぱいやりたい。そんな誘惑に囚われた時、ふと↓の記事を思い出したのだった。

https://togetter.com/li/1549002

ステーション・バーとは、駅の通路で道行く通行人を眺めながら安酒を煽るみみっちくて低俗、否、慎ましく清教徒のようなコスパの高い飲み方のことである。現在モーニングで連載中の『定額制夫の「こづかい万歳」 ~月額2万千円の金欠ライフ~』で紹介され、そのインパクト(?)故に燎原の火のごとくネットに広がった。

ところで新宿駅に本物のステーション・バーがあるのはご存知だろうか。いや、薄汚いロッカーの隣とかではない。新宿ベルグといえば知る人ぞ知る、これぞ本物の駅のバー、仕事帰りやちょっと休むときに使う駅中の呑処というやつである。ここのビールとハム・ソーセージは格別である。コーヒーも美味しいから買い物帰りのお茶に使ってもいい。ここで時間を潰して上映時間を待つことにした。皆さんもぜひ立ち寄ってはいかがだろうか。

画像1

※筆者撮影。メニューの多さがまたええ感じ

画像2

※生ビールとソーセージ盛り合わせ。ばかうめぇ。

しかし漫画のステーションバーに戻る。人様に迷惑をかけぬよう、駅の片隅でおとなしく缶ビールを啜りながら人間観察に明け暮れるそのやり方たるや慎ましくも不気味の一言である。新橋の場外馬券場前や錦糸町の路地裏で飲んでるおじさんとはまた風情を異にする。そして本作『アングスト/不安』もまた別の意味ではあるが、頭の天辺からつま先に至るまで不気味な映画だった。

■制作背景、カメラワーク、配給側のただならぬ努力・・・・・・何もかもが不気味

冒頭からしてこの映画は明らかに見るものを不安に誘う。本作の主役にして殺人鬼K.(アーウィン・レター)が「獲物」を探し回るシークエンス。ぐるりとK.の周囲をカメラ回ったかと思うと、すたすた歩き出す彼の背後を追い始める、だけなのだが、この画面から滲み出す違和感たるや。まるでK.は歩いていないのだ、コルトコンベアーで目的地に運ばれる直立したマネキンのような硬質さ、それかマイケル・ジャクソンみたくムーンウォークかなにか動いているのかな? そんな風にしか見えない。自撮り棒にくくりつけたiPhoneで撮ったかのような妙な動きにも見えなくもないが、この映画が撮られた1983年、案の定、撮影監督のズビグニェフ・リプチンスキは当時は珍しかったステディカムを用いてこうした異様なカットを作り上げた。それだけではない。クレーンを利用しての刑務所やラストの俯瞰映像や、聞けばロープや鏡を使ったDIY感あふれるシステムを組み上げ、到底人間の力だけでは撮影不可能な奇天烈な映像をものにしたという。40年前の映像とは思えない斬新さと作り手の野心を感じさせる、極めて癖の強い映画だ。

映像は小説における文体、文脈とする。と、すればこの癖だらけの映像によってまさしくK.の人間離れした人間性を描き出そうとしている訳だ。人間らしさと言ったものがそのぐにゃぐにゃしたカメラワークによって一切排除することに、ズビグニェフは成功している。演技や台詞以上に、映画という媒体においてこのやり方は説得力があるといえよう。正直この映像を通して見るK.、いや役を越えアーウィン・レターその人自体が得体のしれない魔物になってしまっているのだ。特に彼が立ち寄るダイナーでソーセージを食べるシーンなど見るものに嫌悪感を齎さざるを得ない。

実はこの被写体を魔物化させるDIYカットが適用されるのは、何もK.だけには留まらない。先述のダイナーの客から、彼が後に標的とするある一家、鬱蒼とした森や荒れ果てた豪邸の庭、そして印象的なあのラストシークエンス、強いて言えばこの映画の舞台となったオーストリア社会そのものにそれは向けられている。

オーストリアの映画作家ジェラルド・カーグル監督は、実際におきた殺人事件にインスピレーションを受けこの映画を作った。私財をはたき、銀行から金をつまんで予算を捻出して撮影したのは良かったが、興行は飛ばず泣かずだった。日本でもビデオリリースされたものの今日に至るまで俎上に昇ることもなかった。その御蔭で多大な債務を背負った監督はそれ以降映画を作っていない。身代をもち崩してまでしまったのは気の毒だが、そこまでして作らねばならぬテーマなの? とそれはそれで不気味な気もするがいずれにせよその情熱は素晴らしい。

K.は明らかに精神に疾患のある男で、治療やサポートが必要な人間だった。にも関わらずオーストリア当局は事が起きてから捕まえ、そんな彼を殺人罪で僅かの懲役に架した。そしてブタ箱に放り込み臭い飯を食わせるだけで特に何もせず、世間に放り出してしまったのだ。これを怠慢に言わずなんと言おう。そして悲劇が起こるのである。そもそも彼の家庭環境にも問題があった。育つ環境がその人間の人生を左右する。こうした今日では当たり前の認識だが、『アングスト』は80年代の映画と思えぬ先見性と普遍性を兼ね備えている。

だからカメラは、そうした欺瞞に満ちた社会に向けられる。「異常なのはお前たちなのだ」と。そしてK.のようにドロップ・アウトし見捨てられ、無視された者たちの存在を暴き出そうしている。

余談だが配給側の力の入れようも半端なく、SNSでファンと積極的に交流したり、劇場に気味の悪い装飾を拵えたり(トップ画像を参照、シネマート新宿のエレベータホールです)。またミッドサマーの祭壇のような記念撮影用パネルが作られたりと、さしずめちょっとした奇祭のような様相を呈していた。ちょっと怖かった。

■分析 で、面白かったの?

この映画、ちょいとツイッター等で検索すれば各批評家がやたら美辞麗句が並びたてた賛辞が送っている。また配給側も過剰な言葉による宣伝活動に必死である。一方で、である。それほど「素晴らしい」映画が、何故今日に至るまでほっとかれていたのだろうか?

オーストリア映画といえば、『ファニーゲーム』の巨匠ミヒャエル・ハネケは言うに及ばず、『パラダイス三部作』やレジャーハンティングという攻めたテーマを扱ったドキュメンタリー『サファリ』で評価を得たウルリヒ・ザイドル監督など、注目が集まっている。が、彼らが出てくる以前はそうでもなかったらしい。カーグル監督のインタビューから当時のオーストリア映画が発展途上だったこと、そんな中でも攻めた作風の本作が置かれた不遇がさりげなく語られていて興味深い。80年代はポップカルチャーの全盛、そうした中『アングスト』のような映画はやはり埋もれていく運命にあったのだろう。

が一方で、である。私は見て思った。本作は称賛されるべき点、見るべき点はあるものの、トータルとしての完成度はやや低い。だから普通につまんなくて退屈だったから埋もれてしまったのではないか、と。

例をあげよう。本作は移動シーンだらけである。それを始めとし、必然性のないカットが多い。こういった演出はある種のノイズであり、先述の通りK.の言語化不能な内面を映すだす鏡な訳だ。それにしても本作のK.の歩行量が上記を逸している。道路や森を歩く、標的を探す、家をうろつく、死体を車に運ぶ・・・・・・と1から10まで懇切丁寧に描いている。最初こそ例のぐにゃぐにゃしたカメラワークは確かに面白かった。が、そうした実験的な映像が延々と続けば流石に関心や興味がスポイルされてしまうのだった。

それこそ北野武の諸作品や本作をリスペクトするギャスパー・ノエ監督の『カノン』にも同じようなアートな演出が見られる。その武にせよノエにせよ、見るものの感性を破壊するような映画にするための布石なのだから凄いのだ。『アングスト』はそこまで至っていない。結局のところ、辻褄の合わない行動を取る男の行動を、後からダラダラ追っているだけなのだから。人の感性を揺さぶるウルトラCが足りなかった。そう言わざるを得ない。

またこの映画、R指定で過激かつ倫理的にアウト! なシーンがある。確かに嫌なシーンで、子供や妊婦さんには絶対見せたくないほどだ。が、そのゴア表現もどこか迫力や凄惨さに欠いている。そういう破壊描写が中途半端で、腰が引けてしまった印象がある。そういう面でいうと、先日みたランボーの新作映画の方がよっぽど心に来た。まぁ時代が進んで特撮描写が進んだというのもあるのだが。

尤も、この映画は作り手からそういうエンタメ性を一切追求していないので、私の言及は相当な見当違いとも言える。が、配給サイドの過剰な宣伝のやり方に期待を膨らませたものの、結果として密かに失望しているファンにいたのではないか。私のように。

何しろコロチャンが蔓延する中なのである。映画一本見るにしても慎重に行動しなければなるまい。このレビューが少しでも参考になれば幸いである。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?