本当の地獄は、戦後にこそ待っていた 『ユダヤ人の私』(+『ゲッベルスと私』)批評


『ゲッベルスと私』の続編的な作品でもある『ユダヤ人の私』をみた。数年前『ゲッベルス〜』を見たあの岩波ホールで、だ。

で、見終わった後、私は絶望とまではいかないが、何か薄暗い思いに囚われた。

本作唯一の登場人物にして語り部のマルゴ・ファインゴルト氏の背景や、彼の故郷である当時のウィーンを始めとする欧州については、作品の解説は近年まれにみるようなテキスト量のパンフレットを一読頂きたい。最近だとそれこそパンフレット自体も刷らない映画もあるというのに(おそらくは、まぁ売れないのだろうなと思う)。サニーフィルム配給の映画は、同社が作成するパンフレットも含めて素晴らしいといつも感じる。映画のバックグラウンドを理解する上でも、かなり重要なものである。

話を映画に戻すが、マルゴ氏はチェコで逮捕され、かの悪名高きアウシュビッツにはじまり計4つの強制収容所にたらい回しのように「輸送」され、そこに文字通り地獄をみた。過酷な奴隷労働や耐え難い飢餓、自身の半身のようにいつもぴったり一緒だった兄の死を経験し、それでも彼は生き残った。さぁ漸く開放だ自由だと誰もが思うだろう。

しかしである。マルゴ氏にとっての地獄は終わらなかった。それどころか、はじまりだった。終戦から現在に至る「戦後」にこそ本当の地獄が待っていたのだ。

ドイツのブーヘンヴァルト収容所で開放された彼や収容者のもとには、いつまで立っても迎えが来なかった。他の周辺諸国は元収容者に対し迎えの手配をしたというのに。オーストリア政府はそうした人々に手を差し向けなかったどこか、当時の入国すら拒否したという。臨時政府の意向だとマルゴ氏は言ったが、それはすなわち、当時のオーストリア全体の「総意」としてみるべきだろうと、考える。そうでないなら反対運動が起こってもおかしくないからだ。

つまるところ、恐れたのである。彼らから奪い取ったであろう財産の賠償や返還を。さらには彼らを収容所にぶち込んだことによる報復におびえていたのだ。マルゴ氏と他5名の元収容者は自ら手配したバスに乗り、入国拒否の報を聞き最後はザルツブルクに降りた。そこが彼の終の棲家となる。
終戦後のオーストラリアの空気感は、元ナチを罰するどこか、彼らを優遇するものだったに違いない。それを証明するエピソードがある。ある国営企業の重役の席にはなんと元SSの人間が座り、そのビルの管理人にはあろうことかブーヘンヴァルト収容所の元囚人頭(カボ、と呼ばれる)が任せられたという。

2019年に亡くなるまで、マルゴ氏のもとには数多くの脅迫じみた誹謗中傷の手紙が届いたという。その内容の酷さたるや、作中でも何度か登場するのでその目で確認して頂きたい。

戦後手厚く保護され、保証されなくてはならなかった人々に対して、オーストリアの反ユダヤ主義は死ぬどころか再び牙を剥いたのである。

ホロコースト研究の第一人者ダニエル・ゴールドハーゲンは、その浩瀚な著書の中でホロコーストの元凶を、欧州の人々が持つ「反ユダヤ主義」的認知モデルに求めた。それは、法や制度、ナチや秘密警察の圧力に屈し「仕方なく」従っていたという諸説(ラウル・ヒルバーグが唱えている)と真っ向から対立するものだ。つまり直接の実行犯である軍や、かの警察大隊のみならず、市井の人々が自発的に虐殺に加担し、それを実行する政府を無条件で受け入れたことを突きつけるものだったからだ。ゴールドハーゲンはつまりこう言いたいのだ。ナチの擡頭はホロコーストのきっかけにすぎず、こうした「認知モデル」、つまり価値観が存在する限りは、またいつかどこで虐殺は起こりうるのだ、と。

当然それには、多くの異論が寄せられ、私もそれに疑問を持っていた。しかしである。

「仕方なかった」「ユダヤ人への迫害は知らなかった」「体制からは逃れられない」。前作『ゲッペルスと私』で語り手のブルンヒルデ・ポムゼル氏はそう語った。ゲッペルスの秘書というポストに付き、ある意味尤もホロコーストを間近で見ており、間接的も虐殺に加担したはずの彼女が、である。自己弁護に走るのでなく、開き直りでもなく、あっさり言ってのけるその態度にゾッとさせられる。しかし同時に、一度たりとも今の政府がナチのようになったとしたら……人間とは所詮こういうものではないかとゴールドハーゲンの説は半ば正しかったのではないかと、人間存在そのものへ絶望させられる。まさしく、邦題の『ユダヤ人の私』という言葉に全てが集約されている。彼が「ユダヤ人」である限り、戦後だろうとこの地獄は続くのだと言いたいのだ。

マルゴ氏やポムゼル氏の証言から私たちが学ぶべきものはなんだろう。遠く離れたヨーロッパの特有の問題で、所詮他人事なんだろうか。我々にそんな危険がない、と誰が断言できるだろうか。近年の我が国の様相を見ている、私にはかなり身近な問題のように思ったのだが。

とりもなおさず、私達もナチのような「体制」が完成する前になんとしてでも壊さないとならない、ということだ。だが以前に、歪んだ価値観に私達は浸されいないだろうか。その歪みをチェックするための客観性や公平さを、私達は有しているのか。彼らの率直で勇気あるモノローグの中から、私達が学び、拾い上げるべきものは、無数にある。

本作はただ暗いばかりではない。マルゴ氏の個人史の中の、比較的明るいエピソードにも光を当てる。物心ついた頃に確かに飢餓の辛い経験しているが、青春はダンスとファッションに情熱を注ぎ、女の子のケツばかり追いかけている。また彼は手八丁口八丁、やり手のビジネスパーソンで、イタリアでは成功を収め、またその時身につけた語学やスキルが、戦後彼が人生を注いだユダヤ人の支援活動に大いに貢献している。この人は絶望だけではない、地獄のような状況でも私達に戦い方やその心構えを教えてくれるのだ。

現在、岩波ホールでは上記『ユダヤ人の私』と同時上映で前作『ゲッべルスと私』も併せて公開されている。ホロコーストという消し難い壮絶な過去を違った立場、かたちで経験した二人の言葉を聞くことができる貴重な機会だ。興味があればぜひ劇場までどうぞ。

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