HiDead 1
「死」ってなんなんだろう?
わたしは、読みかけのマンガを閉じて少し考えてしまう。
もう動けなくなること?息ができないこと?
なんだか、近いけど「死」とはまるで違うことだとは思う。
当たり前の話だが、わたしには「死」というものを実感を持って考えることができない。
そういえば昨日、町のなかでピクリとも動かない猫をみた。
「死んでるのかな?」
そういって、手を伸ばすと、触るか触らないかというところで静電気が起きたのか、猫は飛び上がって逃げていった。
友達は笑いながら、
「死んだ猫とは全然違うよ」というので、
「死んだ猫、みたことある?」ときくと、
「やだー、ないよそんなの」と苦い顔をされた。
そのときは、そのまま話は終わったのだが、今になって急に、なんだかひっかかる。
死んだ猫を知らなくても、死んだ猫と生きてる猫というのは、誰にでも、普通に、当たり前に、見分けがつくものなのだろうか?
だとしたら、その見分けがつかないわたしは、普通じゃないくらい間が抜けているということなんだろうか。
わからない、根拠はないけどたぶん違う気はする。根拠はないけど。
ふと、目を下ろすと緑のカーペットの上、読みかけのマンガが転がっていた。
「疑問が一つ解けると
また次の疑問がわいてくる」
そのマンガの登場人物はそんなことをいってた。
でも、わたしの「死」とはなんなのかという疑問は、いつまでも解けないままな気がした。
わたしには次の疑問なんてやってこずに、いつまでもいつまでも「死」ってなに?
という疑問に振り回されそうな気がする。
やっぱり根拠はないんだけど。
唐突に空腹を感じ、ふらりと立ち上がる。
ふと、このままなにも食べなければ「死」て、なにかが理解できるのかもしれない、という思いが頭をよぎったが、そんなことのために空腹を我慢なんて出来るわけがないのは確かだった。
「ただいまー」
買い物袋を両手にさげて帰宅した母さんが救いの主に見える。
「おなかすいたよー」と、甘えたように言ってみる。
「母さんもねー」
いいながら、荷物を下ろすと手早く冷蔵庫にしまい始める。
「おなかすきずきてしにそう…」
少し大袈裟に芝居がかった言い方をしてみる。
「えー!?
すぐつくっちゃうから、ちょっと待ってよ」
そういいながら、オリーブ色のエプロンを身につける。
「まてなーい」
「あらあら、死にそうなわりには、元気な声…」
いいながら、中身を冷蔵庫に入れなかった買い物袋から、色んな色の飴が入った袋を取り出す。
「わーい」
わたしの歓喜の声を聞き流しながら、詰め合わせの袋を開けると三個ほど取り出し、
「凜、間食はよくないんだよ」
眉を少しあげながら渡してくれた。
「わーい、お母さん大好きー」
ふざけた口調のわたしをみて、しかたないな、といった感じに微笑むと、
「わかったから、向こうでテレビでも見てて」
いいながら、料理にとりかかる。
「はーい」
返事をしながら、わたしは考える。
今、私の手のなかに飴玉は三個ある。これは絶やさず食事の完成まで持たさねばならない大切な資源だ。だから、いつもの癖でガリガリと噛むなどということは許されないのである。
母が食材をシンクに並べる音を聞きながら、わたしは慎重に飴玉を取り出すと口に含んだ。
口に広がる甘味と、母のたてるリズミカルな調理の音とで、わたしのこころは一気に落ち着いた。
カーペットの上の読みかけのマンガのことを思い出し、読もうと拾い上げたとき、ゴリッとなにかを噛み砕くような音がした。
ついいつもの癖で飴を噛み砕いたのかと、舌先で口のなかを探る。よかった、飴は無事だ…
だとしたら、今の音はなんなのか…
わたしはなんともいえない嫌な感覚に襲われながら、恐る恐る音がした調理スペースの方を振り向く。
そこでは母さんが料理の手を止め、両手でなにかを掴みかじりついていた。
それは、どうみてもつまみ食いといった雰囲気ではなく、アニメでも聞いたことのないような大袈裟に下品で不気味な音をたてながら、母は一心不乱にまな板に噛みつき、食いちぎり、噛み砕いていた。
持っていたマンガが手から滑り落ちる。
「ひゅっ!」
思わず、飴を飲み込んだ拍子に、喉から声が漏れた。
それを聞いたのだろう母がゆっくりこちらに振り向く。
普段から少し日に焼けた母の肌は、不自然なまでに青白くなっていて、そこにぽっかり空いた穴のように真っ暗な口のなかで、鰹節のように噛みちぎられたまな板の欠片が転がされているのがわかる。
とっさにいつもの母さんではないことは理解できたが、
「母さん!?」
おそるおそる近付き、呼び掛けてみた。
だが、母の目からはまるで生気が感じられず、クチャクチャと繰り返し音を立てる口からは、ざらざらとしたノイズまみれの吐息が漏れていた。
逃げなきゃ!
理屈ではない直感として、この場から離れなければならない気がした。
わたしは母のいる台所の横をすり抜け、玄関へと走る。
まるで掴みかかってくるような動きで母が手を伸ばしてきたのを無意識で振り払い、外に飛び出す。
わたしと母の暮らすアパートの一階は、すぐに道路に面していて、わたしはしばらく無言で走り続けたあと、大声で「誰か!」と叫んだ。
わたし以外の誰かなら、母の状態を理解して母をいつもの母さんに戻してくれるかもしれない。
けれど、そんなに都合よく「誰か」が通りかかってくれる訳でもなく。
わたしは走り続けながら周囲を見回した。
いつもどおり閑散とした町並み、仕事帰りの大人達が帰り道に歩くのは、夕暮れよりも少しあとになる。
それにしても、今日は少し人通りが少なすぎる気もする。
母はゆっくりした動きでわたしを追って外に出たらしく、私たちの部屋の前でぼーっと立っていた。
そのまま、わたしを追いかけてくるかと思ったので走っていたが、ふらふらと立ち尽くす母の姿は青白い肌と合わさって、なんとも心細そうに見えたのでゆっくり近づいてみた。
数歩近付いても、母はわたしを気にかける様子もなく周囲を見渡していたが、突然、空を見上げ口から喉がつぶれたかのような音を出すと、屈みこみ、側にあった自転車のサドルにかぶりついた。
わたしは思わず足を止め、サドルの皮を食いちぎり、中のスポンジを口の端からこぼしながら、クチャクチャと音をたて噛み締めている母の姿を何とも言えない悲しい気持ちで眺めていた。
すると、わたしと母を挟んで向こうから自転車に乗った人影が近付いてくる。
遠目にも、その人物が警官の制服を着てることがわかった。
母とわたしを助けられる誰かが現れたのだと、一瞬だけホッとした。
一瞬だけというのは、その自転車に乗った人物の肌が異様に青白く、目は暗く落ち窪み、黒い穴のようにぽっかりと空いた口から喉がつぶれたような音を立てていることにすぐに気付いたからだ。
わたしはその暗く窪んだ目と視線が合ったと直感した。その自転車の軌道がわたしに向いてることも疑いようがなかったので、くるりと踵を返して我を忘れて走った。
潰れた喉から漏れるような音はどんどん大きくなり、わたしに近付いてくるのがわかる。
わたしは声の限り大きく「誰かー!」と叫んだ。
自分の声が止むと、後ろからついてくるノイズに絶望とともに飲み込まれてしまう気がして、わたしは「アァァァァァ!!」と叫び続けた。
そして、それも苦しくなり、限界がすぐ側に迫っていることが明らかだった。
そのとき、どこかの家の屋根からだろうか、フード付きのコートを纏った人影が、私の背後に飛び降り、その裾を翻すとなにが起きたのか、すぐそこにいた自転車に乗った人影が吹き飛ばされていた。
おそらく、わたしを救ってくれた青いロングコートの主は、フードの隙間からやけに水気のない薄黄色の肌を覗かせていた。
顔の真ん中、鼻があるべき位置はペタリと平たくて二つの穴だけがあった。
血の気のない薄い唇の奥から肌の色に似たくすんだ黄色の歯が並んでいた。
やけに落ち窪んだ目は、やたらとギラついた赤に輝き、まっすぐわたしを見下ろしていた。
その顔を見ながらなにかのイラストを思い出したわたしは、
「あなた、死神さん?」
と思わず訊いていた。
とたん大声でハハハッと笑いだし、
「とんでもないことをいうガキだな」と付け加えた。
そして、骨ばった顎をゆっくり擦り黄ばんだ歯をむき出しにしながら、
「…し…」
と、つぶやいた。
わたしが「なに?」と聞き返すと、青いコートの彼は、ほのかにカビの匂いのする息を吐きちらしながらこういった。
「どちらかというと俺は、死そのものかもしれねーな」
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