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教養は「隠し味」であるという話とオススメの教養本3選

私は大学生の時、色々拗らせていたというのもあって、岩波文庫を始めとした古典や専門外の分野の本を無駄に広く読み漁っていました。

所謂、「教養」を身に着けるためです。

その上で言えるのは、特に大学生は教養を身に着けるより大切なことがあって、それをしなければいくら教養を身に着けても無駄になるということです。

何故ならば、教養というのは「隠し味」だからです。

貴重な大学生活や人生を、私のように悪戯に消費して欲しくないという想いです。それを述べた上で、私オススメの教養本を3冊ほど紹介します。


大学時代にひたすら教養だけを身に着けた者の末路


私は大学生の時、精神を病んで苦しんだりもしていましたが、その傍ら貴重な時間の多くを「教養」の勉強に費やしていました。

例えば、私は経済学部だったので、マルクスの『資本論』やアダム・スミスの『道徳感情論』といった鉄板の古典はもちろん、ケインズやシュンペーター、ガルブレイズなど教授達が勧めるものや有名なものは片っ端から読んでいました。

またそれでは飽き足らず、人文・社会・自然科学といった分野に囚われず、少しでも知っておくべきだと思ったものには全て幅広く手を出していきました。


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上の画像のような本というのは私が読んだ中のほんの一部に過ぎず(これは大学卒業時に本をかなり減らした後)、全てを挙げようとすると余りにも数が多くてキリがないです。

主に哲学ではニーチェやヴィトゲンシュタイン、ボードリヤール、社会学ではウェーバーやルーマン、心理学ではユング、文学ではボルヘスといった古典を好んで読んでいました。

それに、脳科学や進化論などの自然科学も私にとっては興味深いものだったので、専門的に理解できなくとも、なるべく広く・新しい情報を仕入れようと心がけていました。


……という風に、私は教養だけならば相当身に着けたという自負があるのですが、それらは結論から言うと、全く1ミリたりとして役に立つものではありませんでした。

それは後に述べるようにも、教養というものは「隠し味」であって、自分のベース、軸となるものが存在しなければむしろ邪魔にすらなってくるという事情があります。

(※しかも、そうやって懸命に頭の中に入れた本の内容も再度読み返せば何とか思い出すことが出来るものの、今となっては大体が抜けています。)


それでも、そのとき私が懸命に教養を身に着けようとしていたのは、それさえ身に着けば何か人間として深みが出て新しいものが見えてくるのだろうと信じていたからでした。

それに、授業をする教授達は皆揃って「『○○』ぐらいは読んでおかないといけない」・「教養を身に着けた方がいい」などと言っていたので、大学生の私はそれを信じて疑わなかったのです。

しかし、今考えてみると大学教授というのはあくまでも自分の興味関心のある専門分野を研究して飯を食べている人たちで、自分の売りになるだけの守備範囲があるのです。

その上、彼らは社会ではかなり特殊な職業なのであって、そういう人間の言葉を真に受けているとドンドン社会からズレていくのですが、高校を卒業したての私はそれがよく分かっていなかったのです。

私は自分の所属する学部で教えられる経済学を勉強することよりも、その周辺分野の知識ばかりを身に着けることを優先していました。


結局、私は大学を卒業しても「専門」と言える自分の得意分野を身に着けることが出来ませんでした。

例えば、私は確かに社会学の「社会システム論」などを勉強しました。しかし、勉強したと言えば結構勉強したのですが、確実に「専門」だとは言えないのです。

一方でまた、本来の専門科目であった経済学はとりあえず卒業単位を取る事だけに集中していて、履修科目に繋がりがありませんでした。(※「○○コース修了」みたいなものを貰えませんでした。)


それで苦労したのは、何よりも就活……金を稼ぐことでした。

大学で勉強したことが上手く言えないのです。貴重な大学生活の多くを教養の勉強に割いたのにも関わらず、何を勉強したのかを説明出来ないのです。

それで面接などでは上手く説明できなかったりして、悔しい思いをしました。(※もちろん、私の性格や能力不足というのは大いにあるのですが)


「一体、何を大学で勉強したのだろうか?」

愚かな私は、教養はそれ単体では何の意味も価値もないのだと大学を卒業するにあたって、ようやく初めて気付いたのです。

こうして人間性の深みを出そうとして、逆に広く浅い人間が出来上がってしまったのです。

世の中の役に立とうと思って勉強していたのに、何の役にも立たない人間になったのです。



教養学部は墓場だから覚悟が必要かも


それに関連したエピソードがもう1つあります。

実は私は、就職せずに大学院へ進学することを元々考えていました。

そして、学部では実質的にそのような教養ばかり勉強していたことがあって、経済学部の大学院へ進学する気はなく、とある大学の教養学部(系)の院へ行こうと思っていました。


それでゼミ見学へ行ってみたのですが、結果から言うと「教養学部は墓場だ」と思って進学を辞めました。

教養学部の様子は、魂の抜けたゾンビ達が話しているだけにどうしても私にとって思えたのです。

こんな馬鹿馬鹿しい所で2年も棒に振るのは余りにももったいないと。

そして、私はこんな下らないことに多くの貴重な時間を費やしていたのかと。


何故私がそう思ったのかというと、それは外部の人間として教養学部の授業の様子を客観的に見て、「教養」というものが余りにも馬鹿げていると思ったからです。

私が見学に行った時の授業内容は、確かゼミ生が研究しているテーマを持ち寄ってそれについて皆で話すというものだったのですが、本当に不毛な議論をしているように思えました。


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(※こういう経済学を勉強する学部が教養学部に存在します)


高田保馬の理解ではこうだけど、宇野弘蔵はマルクスをこう理解していたとか、宇沢弘文はこうだ、それはフーコーやアリストテレスはこう言っていたとかいう話を狭い教室の中で繰り広げて、一体何が生まれるんだ?と。

確かに私も、現代の主流派経済学の考えやそれを利用した経済政策、新自由主義といったものが正しいとは思っていないけれども、話が通じる身内だけでそんな知識の披露会をして満足してるだけだから主流派に好き勝手やられているのだろう、社会が変わっていないのだろうと無性に腹が立ってきたのです。

結局そういう人間達も、そういうポジションを取ることで資本主義社会のおこぼれを吸って生きている寄生虫であって、それがいくら主流派を別の視点から批判したところで、ただの茶番ではないか。

彼らに世界を変える気はないのです。だから初めから説得力が無いに決まっていて、主流派と対等に戦えない。


その時に、私は社会を少しでも良い方向に導きたいならば、やはり社会の中で戦わなければいけないと思ったのです。

それで就職しようという気になったという経緯があります。

まあ、私は就活も社会人生活も上手くいかなかったのですが^^;


しかし、よく考えてみると「教養学部」というのはジェネラリストの育成、つまり初めから「専門を持たないことを専門にしている学部」です。

それは一体、社会のどこで需要がある専門なのでしょうか?

……恐らく「教養学部」ぐらいでしか需要がないのです。

何故ならば、経済というのは専業化(分業)と交換によって発展してきたのであって、そのシステムが成熟した現代において「専門がない」というのはその時点で経済への参加枠が殆どないのです。


ですから、私も教授との面談で最初に言われました。「教授のポストは空かないから、アカデミックの道は厳しいよ」と。

それは当然で、結局そういう風に「教養」を専門にしてしまった人達はその時点で社会の中では生きにくくなるのです。

教養だけを身に着けても大体は金にならないのです。需要を喚起して金を稼ぐためには専門や得意分野が必要なのです。


ですから、特に教養学部(系)を目指している学生は十分に覚悟を決めるべきです。教養の勉強ならば、いつでもどこでも出来ます。

そこはゾンビ達が集う墓場かもしれません。



教養というのは「隠し味」である


以上のような経験から、教養というものについて言えることがあります。

それは、教養というのは「隠し味」であるということです。


これが意味する所は3つあります。

①ベースとなる分野が無ければ意味がない

②多すぎると元の軸がブレてしまう

③むやみに見せびらかすものでも、自慢するものでもない


少し凝った料理を作ったことのある人ならば分かるはずですが、「隠し味」というのはベースとなる主要な食材の味を引き立てるために少量だけ加えるものです。

その量や種類が多すぎれば、たちまちに味のバランスが崩れてしまい、元の料理からは逸れていきます。

適切な量と種類を加えた時に深みが出て、単純な材料の組み合わせ以上の美味しい料理になるのです。ですから、人によっては何をどれだけ加えたのかむやみに言わないことがあります。


教養というのは、まさにそのような料理における「隠し味」と一緒です。

専門分野や興味のある対象を定めた上では、教養というのは深みのある考えや閃きをもたらしてくれます。

しかし、教養として取り入れた知識が自分の中で消化しきれなければそれに引っ張られてしまい、自分の立場や考えすら崩してしまう場合があります。


またそして、十分に教養を身に着けた人であるならば、それを無駄にひけらかしてマウントを取るようなことは決して無いはずなのです。

何故ならば、そもそも教養自体には何の意味も無いと分かっているからであり、純粋な善意以外から種明かしをしようとは思わないからです。

くれぐれも、権威主義的な「知の欺瞞」に陥ってはいけません。


従って、特に大学生が身に着けるものは何よりも自分の「専門」であり、「教養」というのはそれに合わせて塩梅を見て着けていくのが良いと思います。

それが大学における「教養単位」と「専門単位」だったという訳です。(大学は、まずこれを教えろよ^^;)

それは同時に、やはり何と言っても大学は「専門」を身に着ける場所で、それは実質的に就活予備校であることを意味しているのです。



読まなくていいけれどもオススメの教養本3選


以上のように、自分の専門や軸、興味の対象が定まらない限り教養というものは基本的に必要ないもので、むしろ身に着けない方が良いものです。

それを踏まえた上で、教養マニアの私がオススメする教養本を3冊挙げてみます。


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まず『利己的な遺伝子』はとても有名な本で、他の本でもその名前や内容が出されることが多いです。

本書のエッセンスは、「個体レベルの利他的行動と利己的行動が遺伝子の利己性から説明できる」・「生物は遺伝子の操る生存機械である」というものだと私は理解しています。

確かにそれは極端な主張にも思えるので色んな反論もあるのですが、そういう議論を理解する意味でも読んでおいて(知っておいて)損はない一冊です。

またエッセンスとはしなかったのですが、本書で述べられる「ミーム」という概念も色んな形で他の本に見られる用語です。


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次に、『バカの壁』で有名な養老孟司の本もまたオススメしたいです。

個人的にはこの本より以前紹介した『唯脳論』の方がまとまっていて興味深いものなのですが、こちらの方がより具体的で扱う範囲が広いので、文理問わず何か引っかかるものがあるのではないかと思います。

養老孟司はそれこそ「教養深い人」であって、解剖という自分の専門をベースにした考えは非常に面白いです。

最近、Youtubeでも多く養老孟司を見かけるようになってきたので、また一部では流行るのではないかと思います。


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最後に挙げるのは、早川書房から出ている〈数理を愉しむ〉シリーズの、「統計」に関する本です。

この2冊で分かるのは「人間の理性の限界」だと私は理解しています。


『偶然の科学』では、人間の合理性だけでは対処できない不確実性が世界には存在することが述べられます。

また、『「偶然」の統計学』では、人間の認知バイアスについて述べられます。確率的には必ず発生するにも関わらず、ある出来事が余りにも有り得ないことのように思えるため、そこに特別な意味づけをしてしまう特性について述べられます。

ちなみにその特性は、脳科学分野で明らかにされている人間の特性(インタープリター・モジュール)からも説明出来ます。

そして人は事象に対して原因や意味を求めてしまうが故に、理不尽に弱いのです。ですから逃れられない理不尽に直面すると、人間は簡単に壊れてしまいます。

だから、理不尽な作品を多くの人間は不快に思うのです。そういう映画が以前紹介した、『アングスト』『TENET』だったと言えます。


少し話が逸れましたが最後に、私は多くの人が自分の方向性を固めた上で、それに深みを出す自分だけの「隠し味」を見つけることを願っています。

シンプルな味付けの料理というのも時として食べたくなるもので、それも必ず社会に必要なものですが、どうしてもその競争は「質と量」だけの無機質な比較になってしまいがちです。

そこで「隠し味」によって他と差別化することで、社会に対してまた違ったアプローチが出来るのではないかと思います。

まあ、それも所詮は弱肉強食の世界・理の範疇であって、資本主義的な発想の支配にある理不尽な提案なのですが。所詮、私達は生物―小賢しいサルの群れに過ぎないのです。

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