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蔵出し映画評 〜シェイプ・オブ・ウォーター〜

 今年の初めにフランスの映画館で見た後に書いたもの。英語のフランス語字幕で、固有名が正確なのかあまり自信がない。
 この文章を公開するにあたって、確かに映画評としては完全に時宜を逸しているのだが、最近イルカやクジラに人権を感じるか、あるいはセックスドールに人権を感じるかという話題を耳にして、無邪気にもこんなことを書いたな自分は、と思い出したのだった。生理的感覚に左右される問題であってシンプルな結論は出しようがないが、この映画を見て人によってはきっと怪物を受け入れるための心理的努力をしただろうと思い、一方でデルトロ監督にはそんなもの微塵も必要なかっただろうと思う。彼の無条件の、ただし強い意志を伴った寛容、それがこの映画の肝であったことを、はっと思い出したのだった。翻って自分は、デルトロの目を通して見た怪物に対して、あまりに無垢でいたけれども、その私の人間観というものは本当に偽りないものなのかと、省察して止まないのである。

 この映画は海の中から始まる。3拍子の一定のリズムに漂いながら、水の中を進むと、いつの間にか古い木張りの廊下。左側の扉はあいていて、その向こうで主人公やその日常を形づくるモノたちが浮いている・・・。アラームの音。彼女の一日がいつものように始まる。お湯を沸かして卵をゆで、出来上がりのタイミングをはかるタイマーの規則的な音に合わせて、風呂場でマスターベーション。靴を磨いて日めくりカレンダーを一枚やぶり、裏には日毎の名言がある。窓の外からサイレンが聞こえる。朝ごはんは隣人である初老の画家Gilesとともにして、それから出勤。彼らの家は映画館の二階にあり、外の階段を下りると訛りのある英語で支配人が話しかけてくる。支配人は看板に封切った映画の題名を掲げようとしているところ。道の向こうでは火事が起きているのが見え、消防車が走る。ベンチに座るElizaの横には食べかけのホールケーキをもった肥った男。ようやくバスが来る・・・。

 独り身で、声が出せないというハンディキャップを負い、一見さびしい生活にも思えるが、彼女の送る日常は少数の友人と日々の小さな事件を伴った、それなりの豊かさをもったものである。舞台は1962年のボルティモア、南部の片田舎で、派手だが素朴で客の少ない映画館は « Mardi Gras »を4年遅れで上映している。こんな町が、小さな日常にはいかにもおあつらえ向きだ。ElizaをのせたバスはOccam Aerospace Research Centerなる国の研究機関に到着する。彼女はここで清掃員として働いているのだった。この大仰な灰色の建物も、清掃員仲間Zeldaの止まらない愚痴とともに、生活のリズムのなかにしっかりと収まっている。

 いつものように始まった朝、カレンダーの裏に「時は過去から流れる川に過ぎない」と書いてあるのを見たその日に、怪物がこの町にやってきたことが明かされる。それは、偶然に出会ったEliza Esposito(=孤児、Orphun)と惹かれあうことが運命づけられている。その存在が、日常に少しずつ変化を与えていくのだ。Elizaは彼に卵と音楽と、そして言葉を与え、交流を深めていく。そしてこの半魚人に向けられた研究所の惨い仕打ちと、殺害して解剖実験をする計画を知った主人公は、彼を解き放ちたいという強い願望に押し流されていくのであった。

 Elizaの立てた救出計画には、他に3人の登場人物が関わった。彼らは固有の生活と束縛を持ち揺れ動いている。Zeldaは夫婦関係の空虚さとElizaへの友情、Gilesは仕事や同性愛の挫折、Hoffstetler博士=ロシアスパイのDimitriは祖国からの圧力とそれに離反する自己の葛藤、それぞれがそれぞれの桎梏から逃れようという意志が合わさったとき、Elizaの計画が成功へと導かれる。半魚人は日課の出発点たるElizaの浴室に収まった。彼らの願いは、彼らの日常が半魚人を包み込むことである。半魚人を逃がすことは、彼が彼のままでこの世界に存在することを受け入れることなのだ。怪物に政治が強くまとわりついているとしても、彼の不思議な力が未来の人間の「役に立つ」としても、まず彼を愛すというなによりの直感が、各々の理由で社会の外におかれていたこの4人を動かしたのだった。一方でもちろん彼らに逆行する動きがある。Stricklandはクリーチャーの管理を担当する軍人で、彼にも固有の生活とキャリアがある。権力に取り入り、“Power of Positive Thinking” を読み、妻と子供2人の「幸せな家庭」を作り上げてきた。この古くさい「アメリカ的成功」こそが、彼の働きの成果であり、その一つのピースが言わずもがな、ティールのキャデラックなのだ。Elizaたちと半魚人は、権力と見栄に挟まれた彼のバランスを乱す存在に他ならない。彼はストレスを半魚人の拷問にぶつけているようだが、そのときに右手の二本の指を失って以降、築き上げてきたものの歯車が少しずつ狂い始める。無理やりつなげた人差し指と中指が腐臭を発し黒ずんでいくのと並行して、事態は悪化していく。半魚人は何者かに連れ去られ、上司の将軍からは見捨てられた。彼の肉体さえ、成功の一つの象徴だった。

 生活とは無縁の関係でなければならなかった怪物や腐食を、彼は再び日常の外へと追い出そうとした。キャデラックと郊外の一戸建ての彼の白いプライベートは、半魚人とも、政治とも、黒人とも、研究所とも、乖離したものであるべきだったのだ。しかしその境界線が危うい今、回復しそうにない指を引きちぎり、命と引き換えに復讐を果たしたサムソンよろしく、彼は怪物を抹消しようとしている。Strickland は、徐々にElizaの浴室、あの繰り返される日課の出発点へと近づいていくのである。

 この映画の中にはスクリーンが印象的な仕方で登場する。Gilesがみるテレビはいつだって歌手のショー。Elizaがチャンネルを変えると黒人の暴動が映り、Gilesがそれを見るのをひどく嫌うという場面がある。ここにはテレビ的分断というべきものが表現されている。ショーも暴動も同じ時代に同じ国で起こっているアクチュアルな出来事であるが、チャンネルがその二つを区分けし、再び交わることはない。テレビを介する距離感が日常から両者を遠ざけ、非現実感を与える。この動きと対置されるのはもちろん映画だ。Shirly TempleとBojanglesが一つのスクリーンに映る『The Little Colonnel』の一場面。映画館のスクリーンの前にたたずむ半魚人をElizaが見つけ抱擁する場面。そして何よりこの二人の愛を描くこの映画。常にたゆたう水の視線が日常を広げ、そこにマイノリティたちの映りこむ余地が生まれる。彼らの日常がなによりこの世界の一部であることを、水を介してスクリーンが示すのである。

 雨が降りしきる中、Dimitriは殺され、Eliza、Gilesと半魚人は運河に追い詰められる。Stricklandの凶弾は愛し合う二人を貫き、彼の分断の企図は達成されたかに思われる。しかし半魚人の特別な力が、彼自身とElizaを消滅から救い、二人は水の中へと消えていく。そこが彼らの在るべき場所であったかのように、そこまでも彼らの日常であったかのように・・・

 それは怪物と一人の女性との愛であり、われわれと一つの世界との愛でもある。

Unable to conceive the shape of you, I find you all around me. 
Your presence fills my eyes with your love, it humbles my heart, for you are everywhere. 

すべてに行き届き、すべてを包みこむ、それこそが水の形なのだった。

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。