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『蜚語』創刊第2号 特集 新保守主義の時代(1988.3.25)

【表紙は語る】

 スーパーに行くと、生鮮食料品売場にはパックされた青物がいっぱい。しなくれかかっ たレタスの葉が、ラップ のなかで汗をかいている。供給されてくるルートを知ろうともしないまま、ヘルシー志向、ライト志向の時代に遅れまいとして、みんなが生野菜を食べるのか。健康ということは「無害」「無毒」を通りこして、ここではそっくり、 他人の痛みに鈍感ということ。このプラスチックな時代、人間には《死》なんてないみたい。そういえば、某大手スーパーからは若い主婦層をメインの読者に想定して、レタス……なんとかとかいう雑誌も創刊されましたね。

『蜚語』第2号表紙

もの言わぬは腹ふくるるの業

 体のためにと水泳を始めたのだが、私のように意志薄弱な者がとにかく続けるためには、いくらか月謝を払うほうがいいだろうと、スイミン グスクールに通っている。自由業の強みで月謝の安い昼間のコースに参加したが、ほとんどは専業主婦だ。同年代、つまり受験生を抱えている母親たちだが、暮れから1月2月と欠席した。
「やっ ぱりねえ、受験だから」ということらしい。まあ、人のことだからいいけど、15歳にもなったの子の受験のために、なんで週1~2回、1時間の水泳ができないのかよく分からない。
「おたくは? なんて間かれて、思わず「あ、うちはできが悪くて、定時制ですから受験は関係ないんですよ」なんて言うと、あわてて下を向いて、悪いことを訊いてしまったとばかりにバツの悪そうな顔をする。中には、「まあ、女の子だからいいわよね」なんて慰めたつもりの人もいるのだ。何がいいのか、これまたちっとも分からない。
 母親は、どうしてこうまで子どもに拘束されるのか。そうでもしなければ、自分の存在価値がないかのように。
 アグネス・ チャンは、かつて働く母親たちが労働強化につながると企業内保育所に反対してきたことを知ってか知らずか、自ら子どもを請演先に連れ回っては、職場に託児所をと言っている。
 秋吉久美子の話はどうだろう。彼女は出産後の記者会見で「子どものことが気になって、仕事が手につかないなんてことは?」との男性の記者の愚問に、「あたし、お父さんになります。お父さんは子ども『が生まれたからって、そんなことないでしょう」 とにこにこ答えていた。瞬間、場内は「あっ !」とどよめいた。

特集 新保守主義の時代

「愛情深く、調和を好み、秩序を愛し、鋭い直観を以て事物の直相を骰破し、善美なるものを心から讃美する態度等は、男子の容易に及びがたい特長である。特に愛情の深いのは女性の最大の特色であって、その純梓に疲揮せられたものが、所謂母性愛である」 (『新定女子修身』巻3・ 昭和13年3月15日文部省検定済高等女学校修身科用』)

 
ニューファミリーがマスコミに登場し、かつてのマイホーム主義に取って代わった。マイホーム主義に批判的なニューファミリーは、無農薬野菜や産地直送の魚介類をグループ購入し、卵は有精卵、牛乳は低温殺菌のノンホモ、塩は天塩、砂糖は三温糖、小麦粉は国産・ 無漂白、米は白米以外。中性洗剤でなく、洗濯も食器洗いも石鹸を使い、インスタント食品や添加物入りのものは買わない。夫は決して企業戦士になったりせず、家事も子育ても積極的。ラマーズ法で出産し、夫が立ち会う。妻は夫に従うなんてことはなく、2人で共通の友人が多数いる。こういう生活を維持していくのは、意外とエネルギーを必要とする。結局、仕事も家事も立派にこなすスーパーウーマンか、専業主婦かに支えられているというケースが多い。そうやって築き上げた生活は、必死で守ろうとしてしまうものなのだ。だから、壊す可能性のあるものは徹底して排除する。産業優先の社会に対して、エコロジー運動やウーマンリプの運動の中で、家事をもっと大事にしようとの傾向が生まれてきた。家事はビジネスよりずっと大事な仕事だから、夫はその担い手である妻に感謝し、もちろん手伝いもする。出産なんかに立ち会ったらもうたいへ ん、なんて神々しい。母親というのはただそれだけで偉大な存在となる。ここでもまた、女は人間であるより先に、妻であり母であり……とされてしまう。
 ニューファミリーとマイホーム主義ってどこが違うのか。それに、新保守主義ととっても近い。
 新保守主義の仕掛け人たちの弁。「家事はビジネスと違って、愛しいっしょになっ た人のために行う仕事です。そして、人間が生きていく上でなくてはならない仕事です。こんなにすばらしい仕事が他にあるでしょうか。それに比べたらビジネスのなんと無味乾燥なこと。でも夫がそれに耐えられるのも、毎日忙しく家のなかで働く妻の姿があり、疲れを思す暖かい家庭があるからです」。
 なんだかんだ言っても結措は人生最大の幸せ、子どもを持ってはじめて一人前といった世間の考えは少しも変わっていない。最近やたら目につく結婚紹介所の広告や華やかなお金をかけた結婚式。結婚、妊娠、出産をファッショ ナブルに演出するために、百恵、聖子、アグネス らを活躍させ、新しいスタイルの 家事、育児雑誌がそれらを補強している。
 新保守主義どころか、「おなかの 赤ちゃん大切に」の「生長の家」や「教育勅語」を復活させたいと思っている「日本を守る国民会議」だっていつでも受け入れてしまいそうな危ない状態だと感じるのは、思い過ぎかな。

☆☆☆☆☆

『サラダ記念日』症候群

本当にみんなどうかしている。

 
『サラダ記念日 』という短歌集をご存じだろうか。著者は俵万智という神奈川の某県立高校の教師である。「与謝野晶子以来の大型歌人とか、「新人類歌人」などと、例によってマスコミが騒いでいる。何でも売れに売れて、200万部突破だそうだ。便乗商売も盛んで、もちろんテレピドラマにもなった。そのうち、饅頭や暖簾ができるかもしれない。と、ここまではいいのだ。今の世の中、これが売れても不思議はない内容なのだから。林光が作曲をして、東京混声合唱団が定期演奏会で歌ったとまでなると、嫌になちゃうけどね。
 なにがカンチューハイ歌人だ。まっ たくこんなものがそんなふうにもてはやされるなんて、「時代にマッ チしたライト感覚」だそうだから当然といえば当然か。
 ところが、困った現象が現れてきた。どうやら反原発から死刑廃まで、『サラダ記念日 』汚染が広がってきたのだ。運動内容を、なんとか『サラダ記念日 』を手にするような人びとにまで訴えようとしてか、本当にあれを面白いと思ってか、運動までがライト感覚になってきたのかわからないが、集会名称やチラシにこの短歌が使われている。私の知っているだけでもこんな具合だ。
■伊方原子力発電所の出力調翌試験に反対して、「原発サラバ記念日」集会。註⑴
■死刑制度に反対して河島英五のコンサー ト、「『でんびんばかり 』って英五がうたうから2月7日は死刑は・い・し記念日」。註⑵
■神奈川の高教組は、「『建国記念日 』なんて言ってくれるじゃないのオールナイトフィルムマラソン」。註⑶
■李相錆氏の指紋押捺拒否哉判支援バザーのチラシ。「指紋拒否1回につき罰金3万円なんて言ってくれるじゃないの」。註⑶

 まったく勘弁してくれと言いたい。本当にみんなどうかしている。『サラダ記念日』に関しての批判はもちろん、何よりもまず、このような便乗の仕方がなんともあさましい。それぞれの運動にはそれぞれの主張があり、思想があるのだから、表現だってあると思うのに、どうして最も簡単に乗っかってしまうのだろう。
 そもそも『サラダ記念日』には、人間の心の深みや複雑さ、歴史いや思想や哲学がない。すべてを軽く単純に置き換え、自分から半径数十メー トルの世界のことしか頭にない。その範囲で物事すべて、   処理をしてまうのだ。ほとんどが恋愛に関ての歌なのだが、人間の存在について不真面目なのだ。それを、俵万智が師と仰ぐ佐佐木幸綱は、「からりとして、明るい」と評する。私は逆にものすごい暗さを感じる。その暗さは、陰陰滅滅とした暗さではないのだ。陰陰滅滅はいいのだ。なぜならば、それには理由があり、考える材科があり、その向こうには明るさと希望がないわけではないから。
 『サラダ記念日』の暗さは、いつも同じ場所に留まって希望の光すら見えない。それどころか、そこからずるずると内側へ内側へと崩れ落ちていき、決して自らは立ち続けることが出来ないといったような、もう最初からすべてを放棄してしてしまった諦めの暗さなのだ。安っぽいテレビドラマを内容に関係なく、場面、場面で切り刻んだような印象。何かを考えようにも、中身がなく、スカスカしているので、考えようがないのだ。
 もう13年も前のことだが、『クロワッサン』などにも登場する大橋歩というイラストレータが、「ニューファミリー」を対象にした雑誌『生活の絵本』(婦人生活社)で、「家事はビジネスと違う、愛する彼のために食事の用意をすることは、喜びである」というようなことを書いていた。この雑誌は、家事をいっそう大変なものにする、手芸・料理・インテリアなどを「暮らしの中の手仕事」と称して、ファッショナブルに取り上げているのだが……。
 数年前、取材の仕事で早稲田大学のドライブサークルの学生たちと富士山麓へドライブに行った。男はもちろん早稲田の学生だが、女のメンバーはなぜかみな近くの女子大の学生。ちなみにそのサークルは早稲田の女子学生は入れないそうである。それぞれなんとなくペアができていて、昼の弁当はすべて女が競うようにして男の分も作って来ていた、嬉しそうに差し出す女と、当然の如く食べる男。彼女らの話題は、相手の男の就職がどこに決まったかであった。
 俵万智の短歌はまさに、こんな世界そのものだ。恋愛とファッションと旅行とオフィスといった、男が作る女性誌の類そのものだ。こんな『サラダ記念日』を喜んで使うとは、「市民運動家」のみなさん、ちょっと感覚が麻痺しているのではありませんか。

註⑴「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ2本で言ってしまっていいの
註⑵「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日
註⑶愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

☆☆☆☆☆

大好きな丸山邦男さんの講演会を開催した。

☆☆☆☆☆

あなたも国粋主義者になれる—『常識の試み』 ⑴

33 日本の天皇と英國の皇帝との異なる貼は何か。

34 日本の天皇と米國の大統領との全く異なる貼は何か。 

35 米國や獨逸のやうに、國を治める大權を實行する人を國民の中から國民の選擧で定めるとしたら、どんな不都合が生ずるか。或いはこれがため都合の良いことは生じないか。不都合の點1.2.3. 都合の良い點1.2.3.

36 日本の天皇陛下の持し給ふ大櫂と米國や獨逸の大統領の有する主櫂        とはどんな貼が異なつて居るか。

37 日本の天皇陛下の大櫂は、どんな基礎の上に立つて居るか。

38 米國の大統領の大櫂は、どんな基礎の上に立つて居るか。

39   日本の皇室と日本の大櫂とはどんな関係があるか。

40 獨逸の大統領ヒンデンブルグの生まれた家と獨逸の主櫂とはどんな関係があるか。

41 大櫂とは何のことであるか。

42 天皇は国務大臣をして天皇を輔弼し、枢密顧問をして諮詢に應へしまさせ給ふて居るが、これは大櫂の親裁専断を防ぐるためであるか。

43 日本の皇位に缺くべからざるものは何か。

44 日本の國の皇位に大櫂が假に無くなったとしても、矢張皇位は皇位であるか。

45 若し萬一日本の國體を危うくするものがあつたならば、我々は之に對して、次の場合の何れを選んで活動すべきか。
1.2.3.4.の中につき、諸子の選ぶものに印をつけ、かつその理由を記せ。
1.傍観する。その理由。
2.自から死を以て防がせる。その理由。
3.政府の力を以て防ぐ。その理由。
4.全国民の總力を以て防ぐ。その理由。

46 日本の國體は世界無比の國體であるのに、日本の國民は色々の點に不満を感じてゐるが、その主な不満はどんな點にあるのか。そのもつとも大なるものから順次に記せ。1.2.3.4.5.

47 今諸子の記したやうな不満を根本から消滅せしめんとするには、如何ににしたらよいか。その重要なる方法を重要なるものより順に記せ。1.2.3.4.5.

48 現在あなたが眞に不満を感じて居ることは何であるか。何についてでもかまわないから、もつとも甚だしい不満から順次に記せ。1.2.3.4.5.

49 今記された不満は、どうすれば無くすることができるか。前の答の順序に従つて、その不満の解決案を記せ。

50 貴方は将来自ら立つて前問の解決に當たる覺悟と又その解決を眞に果たしうるの自信があるか。

51 日本の立憲政體とは何のことか。

52 日本も立憲政體によつて日本の政治を行つて居る。米國も立憲政治によって米國の 政治を行つて居る。この点では両者は同一のように見えるが果たして同一か、或いは異なっているか。この點について諸子の考えを記せ。

53 日本の立憲政體を完全に活動せしめんとするには、何が最も重要であるか。その最も重要なるものより順次に記せ.1.2.3.4.5.

54 今日の日本の立憲政治には、色々の思はしからぬことがあるが、その根本の原因は如何なる點にあるか。

55 今日の日本の思はしからぬ立憲政治を全國民の満足するやうに為さうとするには、各國民はどうしたらよいのか。又、あなた自身は如何にすべきか。それを記せ。⑴國民としてなすぺきこと ⑵あなた自身のなすべきこと

56 日本憲法とは何であるか。何を定めたものであるか。

57 日本の憲法は誰が定めたものであるか。

58 日本の憲法は何のために定めたものであるか。

59 米國や佛國の憲法は主櫂を限定し、人民の櫂利を擁護したものであるが、日本の憲法も大體はこの點に於て、米、佛の憲法と同一であるか。

60 ある人は、日本の憲法をもつて政権を民衆の手に奪ふ武器と云つたが、それは正しいか。

61 日本國民は議員となり帝國議曾を通じて政治に參與することが出来るが、この参政櫂を正しく使用するには、如何なる態度、如何なる精神を以て議曾に活動すべきか。

62 日本の衆議院、貴族院は自ら政治を行ふ機間であるか。或は天皇の政治に協賛するのか。

63 帝國議曾で決議せられたことは、皆直に實行に移されるべき性質のものか。或はその實行は天皇の御意のままで、實行遊ばすも、實行遊ばさないのも盡く天皇の御裁断によるべきものか。

64 参政櫂とは如何なることか。議員は議曾に出席し、政治につき如何なることまでを為し得るのか。

65 政治を眞に決定し、實行する櫂力は議曾にあるのか、   天皇にあるのか、或は両者にあるのか。

☆☆☆☆☆

書評 『星屑のオペラ』 山口泉(1985年刊)

西倉潔(建築家)

『星屑のオペラ』表紙

 単に新しいでもなく珍しいでもなく、周辺を歩いていたのに一度も見ることも、見ようともしなかっ た、それだけに辿り着けなかった世界へ の接近をもたらす〝新鮮さ〟というものがある。この、〝新鮮さ〟は、慣習的な感党や日常性の虚偽のベールをなんなく乗り超えてくるだけに、ある種の凍った認識に固執する人びとには、嫌悪感をもたらせたりし、またある人びとには、深い打撃とともに確かな世界への手ざわりを与えたりする。ある種の芸術作品に触れたときに思う、あのなんとももどかしい言葉にしかならない状態とか、おだやかな表情の向こう側に、一瞬見える生の重さをもっ た人に出会ったときの気持ちの揺れようとかいうのは、皆こんな〝新鮮さ〟を伴っているのかもしれない。
 そんな力ある新鮮さを読む人に与える書物である。
 収録された形式はきわめて多彩である。4篇の小説と4篇のエッセイ、詩三篇、その他日記・素描等等……。しかし本書の多様さ・多彩さは、その収録された形式のみによるのではない。私たちが、ある種の時代意識や硬直したヒューマニ ズムに安住して、多くの価値、そして他者を切り捨ててしまっていること、人間をその部分的側面のみで判断してしまっていることに対する警告を、著者は、まず、この〝多様さ〟・〝多彩さ〟をもって発する。これは著者の 一 貫した姿勢であり、そしてそれそのものが、思想の 一部ででもある
かのような、果てしない 綿密な確認作業であるところの———。

 「いま、人間が生きているということのあまりにも豊かな多様性と、そのすべてをより深い次元で貫ぬいている、生きるという営みの根源の意味とを確かめたい———」

『星屑のオペラ』(p24 後記)

 という意志によるものなのだ。しかしいまの時代、この多様性という言葉は、使われた瞬間からその本来の意味を失っていく。そして、それは他者との関係を無意味で暖昧なもの とし、それ以上の検討をしていくことを拒否させてしまうことの方が多い。(たとえば「多様性の時代」とか、「価値観の 多様化」とかいう使い方———もっ ともそれほど多様でないことの方が多いのだが)。しかし、著者の言うところの 多様性とは、ただ単に私たちを無責任な関係のなかに据え置くものではない。人間の里さと豊かさをあくまで認め、その犯しようのない存在のなかにこそ、真実を見ていこうとする。

 「なぜなら人間は、その発生の最初から、漠然とした人類の一員という役割よりさきに、一つの具体的な肉体、(および精神)として存在しているのだから。そして肉体は一つとして、 他と同質の運命を生きることができない。しかもその、他とおなじ運命を生きることのできない 肉体の内部は、それぞれあまりにも重く豊かなのだ。

(『星屑のオペラ』p140傍点・引用者 )

 私たちは、忘れる。この重要な一点を。〝他とおなじ運命を生きることができない〟ということを。本来、他者とは、それがどんなに愛する者であっても別の存在なのだ。そしてその存在は、語っても語り尽くせぬほどの多様性を内在させている。他とおなじ運命を
生きることができないという点において、すでに人間は〝生命であ         ることの孤独〟(p134 )を持っている。そしてその孤独さゆえに多様なのかもしれない。では、他と同質の運命を生きることができない 一人一人の人間は、もう理解しあうことも、真の 意味で連帯しあうこともできないのだろうか。 著者はそれに対して、かすかな希望を示している。少々長い引用をさせてもらう。

 「人間とは一種巨大な漏斗状をなした立体なのであって、通常自分が他者と接しているのは、その入口の最もすぽまった部分だけであると考える方が実際に近い。ただ――ついに相手の背後にひろがる、その広大な涌斗状の空間に直接、触れてみることはできないにせよ、そのものが存在している事実を想像することなら、それは自分にも可能なのだ。なぜなら、相手が携えているそれと、あきらかに似ても似つ かない、まっ たく異なったものであるはずでありながら、しかもより深い次元において完全に同質の空間を――自分自身もまた、   秘めているはずなのだから。
 そして、その一点においてのみ――おそらく人は、誰か他者とともに生きたと言いうるのではないかと思う。

(『星屑のオペラ』p147-148)

 〝より深い次元において完全に同質の 空間〟——いま私には、この意味を精確につかみ、書き示すことはできそうにない。これは、言葉以前のうめきにも似た何かなかもしれない。それは他者との関係それも真の関係の糸口となっている何かである。〝生命であることの孤独〟を真に知覚しえた者だけが手に入れる連帯なのだろうか。一体、   人は〝生命〟というものを自分自身の肉体のなかで知覚することができるのだろうか。普通これはあくまでも想像するだけだ。生命というものは、いつも自分の外側にあって、それを自分では流れゆく風景のように見ているだけなのだ。
 ……と、ここまで書いて、私は妙な不安のなかにいることに気がつ く。自分自身の 実在は、何によって確信を持てばよいのか。いま持っているすべての事物によっての証明はむずかしい。知識も理論も何もかも。それらは多分にうつろい やすく、交換が可能だから。確実なものとは何なのか。

「おまえの苦しみは、 孤独は――そして他の人びとの苦しみも孤独も――すべての当事者の内部へと、いっそう深く沈み込んでゆき、その最も深い部分へ まで達したとき、そこで静かに輝きはじめた。おまえ自身を、そして彼ら一人一人を、あかあかと照らしだすために。すべての人びとの実在を私に告げるために。

(『星屑のオペラ』p182)

 「もう一度、私と他者とのあいだに何かが可能だとしたら――恢復された関係が電気のように成立する。その瞬間にのみ、私にとっての他者は――私とおまえとは、その関係の磁極として存在することができるかもしれない。

(『星屑のオペラ』p182)

 確実なものとは、私の実在とは、真実とは、《関係》のなかにそのおぼろげな姿を立ち現わしてくるものなのかもしれない。
 いま、私は、連日の不眠で、 疲労はおそらく極に達している。そしてこの書評として依頼された原稿も、この本を読み進むうちに、書評としての形を持ち得なくなってきたようだ。しかし、体の疲労とはうらはらに、精神は、私のような人間に精神と呼beるものがあるならば、晴れやかな迷走を始めようとしている。 何かがわかったわけではない。人の生に対しての明確な理論を手に入れたわけではない。しかし…… かつてこの書物の一部をゲラ刷りの段階で見せてもらったときと違い、いまは、居心地は……よくわからない。
 この書物の書評などというものは必要ないのだ。まして や、誰も書けまい。それは、言葉で書かれたものなのに、それを再び言葉で表わしなおす余裕を与えないものだから。他者に、読者に、言葉を超えた世界を生み出してしまうものだから。
 わからない、この不思議な心持ちが。ただ体が疲れているからなのだろうか。私にも、ほんの少しの溶解ができるかもしれない。

『星屑のオペラ』裏表紙

☆☆☆☆☆

映画評 「アウシュビッツの女囚」 

監督ヴァンダ・ヤクボフスカ/ポーランド映画/1948年/モノクロ/109分

遠藤京子

 自らも〝アウシュビッツの女囚〟の1人であったし、そこから奇跡的に生き残ったひとりであるポーランドの監督の作品。主人公のユダヤ人女性マルタが街角で突然、ユダヤ人狩りにあうところからこの映画はじまる。彼女が貨車に詰め込まれて送られて来たところはアウシュビッツ強制収容所。彼女はドイツ語ができたので通訳として多少優遇されるが、そこでの体験により収容所内の抵抗組織に参加していく。ドイツの敗北が近づく一方、動きが活発になった抵抗組織も中心メンバーは捕らえられ処刑されてしまう。マルタも捕まるが、絞首台の上で自ら手首を切り叫ぶ。「もう恐れる必要はない。逃げるのはドイツ人よ!」と。収容所上空にはソ連機の構隊が爆音をとどろかし、一斉に逃げる看守たちと絞首台にかけ寄る女囚たち。仲間に抱き抱えられてマルタは言う。「二度とアウシュビッツを復活させてなだめよ」。
 この映画を見て私は2冊の本を思い出した。1冊はフランクルの『夜と霧』。マルタのアウシュビッツ到着は、フランクルの体験したそれと同じであり、彼らは、焼却炉から絶え間なく立ち上る煙と、高圧電流の鉄条網に身を投げた〝カラス〟と呼ばれる囚人の姿に、大きな衝撃を受ける。フランクルは『夜と霧』で「あの身の毛のよだつ戦慄(略)を述べるのを目的とせず(略)日々の生活が平均的な囚人の心にどんなに反映したか」を書くことによって、どんなに絶望的な状況にあっても、人は希望を持って生き抜くことが可能なのだということを教えてくれる。その希望というものの手掛かりを、『アウシュビッツの女囚』は彼女たちの生と死を通して我々に示す。
 そのことが、2冊めの本、山代巴の『囚われの女たち』では、広島県・三次女囚刑務所で彼女自身が発見した「戦時下の囚われの女たちの生きんがための自助の心とその連帯」として描かれている。まさにアウシュビッツの女囚たちに通ずるものであった。この本の中で主人公・光子は、三次の粥も凍るほどの厳寒の中、自分に好意的な看守がそっと差し入れてくれたその日の新間記事が、「凍死するかと思えていた自分の体のすべての細胞の血が歓喜で湧き立つようにも思わせた」と、その冬を乗り切る。記事の内容は、〝スターリングラードにおいて、ナチスの精兵22万人が降伏した。雪が降り氷が張りつめたポルガ川の岸で降伏した……〟というのだ。
 それを読んだとき、彼女の世界との関わりに感動したのだが、まさにその同じ日、アウシュビッツの女囚たちは、ポーランドの民族舞踊を踊って歓喜したのだ。なんて素晴らしい国際連帯! 会ったこともなく、見たこともない遠くはなれた存在が、こんなふうにつながりうるということほど希望に満ちたことはない。

映画評「招待」

監督ヴァンダ・ヤクボフスカ/ポーランド映画/1985年/カラー/96分

遠藤京子

 1週間おいて同じ監督の『招待』を見た。『アウシュビッツの女囚』から38年後に作られた作品で、アウシュビッツを生きのびた女医アンナが、収容所跡を巡りながら当時を回想する。同行者は、40年ぶりにポーランドを訪れた、もと夫ピョートルである。彼は軍隊から帰還したら自分の墓があり、妻は弟と再婚していたという事実を知り、国を去ったのだった。
 アンナは、再婚した後、夫と共にアウシュビッツに収容され、2人とも奇跡的に生還する。しかし戦後、夫は若くして亡くなり、彼女は医者として働きながら娘を育てた。
 お互いに老境に入って再会し、愛情を感じるが、ピョートルの申し出に「やり直すなんて無理」とアンナ。2人で収容所の跡を巡りながら、彼女は当時を語り、彼は必死で彼女の身の上に何があったのかを知ろうとするのだが、そこには微妙な食い違いがある。それは、アウシュビッツ体験の重さか、戦後をアメリカで過ごしたピョートルとポーランドで医者として働いてきたアンナとの違いだろうか。彼の心が、アンナだけに向けられているのに対し、彼女の心は、アウシュビッツで殺された仲間や体験を同じくし共に働く看護士、病院の患者たちなどに向いている。アウシュビッツさえもが風化していくこの社会に対する彼女の苛立ちをピョートルは黙って間くのだが、それはまあこちらへおいて置いて、僕たちはやり直したいと言っているように感じられ、その存在がうるさくさえ感じられた。戦跡と回想と苛立ちと二人の男女の関係とが、何か釈然としないままストーリーが展開されていく。それが映画としてはつぎはぎという印象を受けるのだが、それでいいのかも知れないとも思う。その接目にアンナの苛立ちが見えて、私も終始、苛立ったまんま見てしまった。
 二人の男女の隔たりは、彼女の娘との隔たりでもある。40代の写真家である娘は、叔父のピョートルの誘いに喜んでアメリカヘ旅立つ。良い写真を撮って、ドルを稼いでくるという彼女に、社会のことに興味はないのかとアンナは問う。
 何年か前に見たテレピのドキュメンタリーで、「ご飯なんか1日1回でいいから、平和がいい」と、腕に刻まれた収容所の入れ墨の番号を見せて、ポーランドの女性が言った言葉が忘れられない。

☆☆☆☆☆

《ふりかけ通信》第6号

-ふりかけ通信第6号-1
ふりかけ通信第6号-2
『蜚語』創刊第2号「編集後記」

【2022年の編集後記】

▶︎1980年代後半、コピーライトや雑誌の記事を請け負っていた個人事務所を『蜚語』の発行所とした。その名を「未完社」という。
▶︎ほんの何人かの知人・友人宛に郵送したところ、定期購読をしてくれる人が増えて、それまでコピーで済ませていたものを、版下を印刷業社に持ち込んで軽印刷にすることにした。多分500部だったような。
▶︎1969-70年ころの学生運動の中には、政治改革だけでなく、既成文化の価値観をひっくり返そうというような運動もあった。たとえば、性別による役割分担やそれまで常識とされて来た生活習慣などへの疑問も。そんな中に「性の解放」なるスローガンもあった。
▶︎「性の解放」と言われていたけれど、実は、男にとってはなんの制約もなかったのでは? 解放されるべきは「女性」だったのではないか。
▶︎「性の解放」=女性に対する「性的搾取の自由」だったのではないか。大っぴらにできるという意味での……。
▶︎ずーっとやりたかった丸山邦男さんの講演会。「天皇は〈かみ〉か、〈にんげん〉か。この命題は、天皇制を考える上でとても重要なこと。この時の内容な次号に収録されている。
▶︎『常識の試み』はいよいよその本質が見えてきた。次号にも続く。
▶︎前号から続く「ふりかけ通信」の誌上、「手紙へのお返事」。この手紙をくれたのは、学生時代のクラスメイト。つーと言えば、かーと響くほど、気があった異性の友だちだった。この手紙をもらうまで、この男性がこういう考えを持っているとは思いもよらなかった。恋愛関係ではなかったので、分からなかったのかも。


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