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『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』感想(※ネタバレ注意※)

こんにちは。バナナ星です。

本稿では、2024年3月1日に公開された『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』の感想をまとめました。

この映画を鑑賞した方向けの記事なので、あらすじは省略します。
ネタバレもガッツリ含むので注意してください。

実は私、既に2回鑑賞しています。

本当はもっと早く記事を書きたかったのですが、考えがまとまらず。
とりあえず一旦書きなぐります。

第三者の感想をいくつか読んだうえでの意見なので、もしかすると他の方と被るかもしれません。ご容赦ください。


圧巻の映像・音楽

映像

映像のクオリティについては言わずもがな。制作陣の気合いを感じた。

毎年少しずつ絵柄が変わるが、今年はドラ尻としずかの作画が最高だった。ドラえもんの尻から脚にかけての曲線がかーーーーわいい。パーフェクトドラヒップ。
しずかのぱっちりお目目に比べ、男子組は例年より黒目が小さかった。それもまたかわいい。

音楽

音楽については例年を遥かに上回るクオリティだった。「音楽」がテーマなだけある…。何度か音楽シーンがあるが、それぞれ伝えたいメッセージが異なる。
一度目は、川辺でのび太とミッカが初めて出会ったところ。ここでのび太は音楽の「楽しさ」の片鱗に触れる。

二度目は、川辺でリコーダー練習をしていた4人組とミッカ(+ドラえもん)がセッションするところ。踊るように旋律に乗る子どもたちの姿が印象的である。仲間と合奏する楽しさを伝えている。

三度目は、ファーレの殿堂に誘われた5人組が飛び跳ねながら音を重ねるところ。触れたもの全てが音楽になっていく様子は、見ていてワクワクした。

四度目は、川に水を流すためにファーレエネルギーを溜めるところ。のび太以外は楽器との親睦を深めレベルアップするが、のび太は上手くリコーダーを吹けない。楽器と心を通わせる姿勢が重要だとわかる。

五度目は、涙にくれるタキレンを元気づけるところ。最初はのび太だけ音を外していると指摘されるが、その音を活かし、あえて短調の曲にすることで悲哀の感情に寄り添う。このシーンは、「音楽は辛苦を救う薬にもなること」を示す点で印象的だった。

六度目は、復活したロボット達と街中でセッションするところ。ここは単に見ていて楽しいシーンとなっているが、重要なのは、直前にのび太の音楽家ライセンスがレベルアップしたことである。
きっかけは、ミッカがムシーカ人最後の生き残りだとわかったこと。気丈に振舞う彼女を見て、のび太は「ミッカのために残りのロボット達も復活させたい」と決意する。その想いがリコーダーに伝わり(?)、レベルアップした。
音楽にはスキルだけでなく、楽しく演奏したい・観客を楽しませたいという気持ちが肝要だとわかる。

七度目は、ジャイアンとスネ夫がノイズと戦うところ。ソロだとノイズを退治できるが、2人で合わせると上手くいかない。これは、お互いが主張し合って音が調和していないせいである。やはり、仲間と心を一つにすることが美しい音楽に繋がる。

八度目は、壊れたドラえもんを直すために空き地でセッションするところ。ここでもまた、4人のハーモニーが拮抗して綺麗な音楽にならない。ジャイアンはのび太の演奏を止めようとするが、のび太は自分の力でドラえもんを直したいと主張する。彼の思いに共感し、のび太を主旋律とする合奏へと変化した。
ここはドラのびの友情を感じるシーンでもあるし、4人組が音楽を通して友情を深めるシーンでもある。

九度目は、ミッカとのび太がファーレの殿堂を完全復活させるところ。伝説の縦笛が欠けており、最後の音が吹けずに困るミッカ。偶然現れたノイズを退治するためにのび太がリコーダーを吹くと、いつも通り正規の音から外れた「の」の音が出てしまう。しかし、実は「の」の音こそが縦笛の最後の音だった、というオチ。
型にはまった正解の音ではなく、どんな個性的な音も音楽になることが伝わる。

十度目は、完全復活したファーレの殿堂で地球交響楽(ちきゅうシンフォニー)を演奏するところ。このタイトル回収には鳥肌が立った。
第一楽章・第二楽章だけではノイズを倒すことができず、ミッカと5人組は宇宙へ放り出されてしまう。
ここで挿入される宇宙空間の無音シーンは強烈なインパクトを残した。
今まで音楽に溢れていたのに、急に静まり返る映画館。宇宙空間の中でのび太がどんどん小さくなる様子には恐怖を覚えた。

そして、第三楽章に入る。地球から発せられる生活音も含む全ての「音楽」の力を借り、ミッカと5人組が再びファーレを奏でる。まさに地球交響楽である。
一部「夢をかなえてドラえもん」のフレーズが出てきて嬉しくなった(できれば「ドラえもんのうた」も入れてほしかった…)。

このような経験を通して、のび太は徐々に音楽への理解を深め、楽しめるようになる
このことは、日記の文言の対比から明らかに読み取れる。
初めは「今日わ(は)音楽がなかった。たのしかった。」と書かれていたが、最後は「今日わ(は)音楽をした。たのしかった。」(うろ覚え)に変化した。

私自身、幼稚園の時からピアノや吹奏楽など楽器演奏をしてきた経験があるため、「音楽」がテーマの本作には期待と不安があった。2時間という限られた時間の中で、どこまで表現できるのか。

けれども、実際に鑑賞してその不安は解消された。「音楽」の魅力や肝となる部分を伝えるという点で、本作は十分に役割を果たすと感じた。

服部隆之氏による作り込まれた旋律、アニメーター力作の映像との親和性、脚本から伝わる音楽シーンのメッセージ性……。
人によっては退屈に感じそうなほど長尺で、ミュージカル映画のように歌詞をつけた音楽に頼ることなく、真摯に音楽をぶつけようという姿勢に感銘を受けた。

個人的には、EDのVaundyの主題歌「タイムパラドックス」もお気に入りである。
ポップでおしゃれなメロディーでありながら、どこか懐かしい気もする素敵な曲だと感じた。ついつい帰り道に口ずさみたくなる。

総じて、映像と音楽は圧巻のクオリティであった。

ストーリー展開・キャラクター描写

次に、ストーリーについて考察する。

正直、本作の展開にはツッコミどころが多いと感じた。

展開のスピード

まず概観すると、前半の展開が遅い。かつ、後半はやや加速しすぎである。

ファーレの殿堂を訪れるまでもやや長いし、殿堂を復活させていく(ゲームを進めていくような)展開もテンポ感がゆったりしている。
「なぜ殿堂を復活させたいのか」、「ムシーカ人に何があったのか」という重要な目的・背景が判然としないまま進んでいくため、心理的ストレスがかかる。

一方、ヴェントーに出会ってから物語は急速に進んでいく。
今まで隠されていたムシーカ人の過去が怒涛の勢いで明かされる。大厄災、コールドスリープ、双子の妹の存在など…小学生が一発で理解できるのか?と心配になった。

ゲストキャラクターの深堀

また、個人的にもったいなく感じたのは、ゲストキャラクターの深堀が浅いことである。

まず、ムシーカのロボット達。
モーツェル、バッチ、タキレン、ワークナー、ヴェントーが主要キャラクターだが、どれも「ただ出てきただけ」という感じが否めない。
昔はどんな関係性でどんな暮らしをしていたのかが想像しづらかった。

次に、ムシーカ人ミッカ。
彼女はドラえもん映画のゲストキャラクターとしては珍しく、のび太より幼い少女である。
その裏返しでもあるが、過去に抱えているものが少ない。

もちろん、一人ぼっち(チャペックを除く)で生活してきたという孤独感は理解できる。ファーレの殿堂を復活させたいという思いの強さは感じた。
しかし、それ以上の深い過去があるかと言われると、全て赤ん坊の時の出来事なので感情移入しづらい。
ロボット達と比べ、彼女はあまりにも無邪気である。

最後に、歌姫ミーナの扱いである。
映画の宣伝では超重要人物だと売り出されていたが、なかなか出てこない。結局登場シーンは数分程度。しかも、突然現れた謎の少女に大切な縦笛をあっさりと預けてしまう。

こんなに軽い扱い方ならば、そもそもミーナを登場させる意味がないように思えた。恐らく宇宙と地球でシンフォニーを奏でるというラストの構図を明示したかったのだろうが…。
もしミーナを出すのであれば、もっと早い段階で登場させ、彼女の過去も深堀してあげたい。

このように、ゲストキャラクター自身の深堀が不十分だと感じた。

また、彼らとのび太たちとの関係値が薄いように思われた。
出会って間もない(2日くらい?)彼らのために奔走する理由が不明瞭である。
だから、なのか、本作ではゲストキャラクターとのび太たちとの別れのシーンが省略されている。正確には、EDの挿絵で描かれる程度であった。

例年は、ゲストキャラクターとの別れのシーンは感動ポイントの定番である。それが省かれたということは、別れを描いてもあまり感動させられないと制作側も感じていたのではないだろうか。

敵キャラノイズの描き方

ゲストキャラクターに加え、敵である宇宙生命体ノイズの描き方についても考えたい。

近年、ノイズのような人間以外の敵キャラが増えてきたように感じる。これには賛否両論あるだろう。

肯定意見としては、AIや宇宙生命体を敵に設定することで現代の社会問題を見直す契機となる。
Chat-GPTやコロナウイルスなど、非人類によって人類が脅かされる可能性が指摘される今日にはピッタリである。

否定意見としては、敵に感情移入できないことである。
ドラえもんに限らずバトルもの作品では、敵にも辛い過去があり、そのせいで今は悪事に手を染めている――という展開が王道である。
そうすることで、勧善懲悪にならず、人には善悪の二面性が存在することを伝えられる。敵にも感情移入できる。
けれども、悪事に目的をもたない非人類に対して、特に怒りや共感は湧かない

現実の社会問題を提起する点では良いが、純粋にストーリーによって心が動くかという観点では、難しいところである。

今後も非人類の敵キャラクターが増えていくのだろうか。

伏線回収の巧拙

本作ではいくつかの伏線が散りばめられていた。
流石!と称賛したくなるようなものもあれば、露骨すぎる…と感じたものもある。

良かった伏線

第一に、のび太の「の」の音である。

映画のポスターのコピー「ドレミファソラシ…ノ?」から察することもできるが、私は気付かなかった。
散々馬鹿にされてきた「の」の音が最後のピースだったこと、個性的な音も音楽として認められることがわかり、カタルシスへと導かれた。

第二に、地球交響楽のからくりである。

ドラえもんが宇宙空間に投げ捨てたひみつ道具同士がぶつかり合い、時空間チェンジャーが作動→地球と宇宙がお風呂場に
という仕組みなのだが、
都合良くひみつ道具がぶつかったのは、のび太があらかじめ日記に「みんなでおふろにはいってたのしかった」と書いていたから…。
なるほど!と膝を叩きたくなるオチだった。

それに加え、お風呂場にも仕掛けがある。

物語前半、ミッカと出会った日の夜にのび太とドラえもんがお風呂に入るシーン。ドラえもんが「お風呂場だとよく響くね」(うろ覚え)と言った。
だからこそ、のび太はお風呂場でリコーダーを練習した。
そして、お風呂場にリコーダーを忘れ、時空間チェンジャーで取りに戻った。
ラストのシーンでは、恐らくその時の設定が残ったままチェンジする範囲が地球全体に拡張されたため、お風呂場に地球が移動したのである。
よく響くお風呂場だからこそ(?)地球の音と宇宙のファーレが反響し合い、ノイズを倒すことができたのだろう。

実に綿密に練られた伏線。しかも、大人でも気付かないようなさりげなさ。
天晴れである。

微妙な伏線

特に露骨だなと感じた伏線は、歌姫ミーナの存在である。

映画の宣伝でも重要キャラクターだと言われていたこと、作品冒頭からスネ夫や町の人々が噂していたことから、明らかにラストに関わる人物だとわかってしまった。
その割には本格的な登場が遅く、双子の妹の子孫という設定は後付け感が否めない…。

「まさかこの人が!」という驚きもなければ、設定への納得感も薄かった

その他の疑問・改善案

  • 音楽が消えた世界でもスマホの着信音は鳴っていたが、あれは音楽に相当しないのか?(チャペックは目覚まし時計を楽器と捉えていたが…)

  • ミッカが急に現れたり消えたりするのは特殊能力なのか?

  • なぜしずかがピアノを弾くとファーレの殿堂への道が繋がるのか。チャペックが直接連れてきても良かったのでは?

  • なぜのび太たちがヴィルトゥオーゾに選ばれたのか?

  • チャペックはファーレの殿堂の復活、ヴェントーの復活を目的としていたが、その後何がしたかったのか?一生殿堂でロボット+ミッカと暮らすつもりだったのか?

  • ヴェントーが壊れていた…という展開は必要なのか?すぐに修理するのであれば省略しても良かったのでは?

  • 惑星ムシーカでファーレエネルギーを独占しようとした者たちがいても、ファーレエネルギーを生み出すには音楽を継続する必要があるため、ノイズに侵略される余地はないのでは?

  • なぜムシーカ人のなかでミッカだけコールドスリープに入ったのか。他のムシーカ人も入れば滅亡を免れたのでは?

  • ミッカが今になって目覚めた理由は何か?

  • ミッカたち双子を残してたとしても滅亡は避けられない。ムシーカ人は双子に何を期待していたのか?

  • 惑星ムシーカと同じような星=地球なのであれば、ムシーカ人全員地球に移住すれば良かったのでは?

など…

変わり種の映画

最後に、大長編ドラえもん(映画ドラえもん)における本作の立ち位置について考察する。

様々な点で、本作は変わり種の映画である。

まず、「音楽」というテーマは、F先生が大長編ドラえもんで扱ったことのないものだった。ここまで音楽の描写に重きを置いた映画はなかなかない。

また、キャラクターの描かれ方も歴代の作品とは異なる。
映画だけいいやつになるジャイアンは見られず、スネ夫は普段より辛口な印象を受けた(面白かった)。
敵キャラクターが非人類という点も珍しい。

さらに、異世界のスケール感も過去作と比べて小規模である。
F先生作の大長編では、惑星全体、宇宙全体、海底全体など大規模なSF世界が描かれることが多かった。
一方、去年や今年の映画は一つの小さな星(衛星)を舞台としている。
最近の映画ドラえもんの流行りなのだろうか。

総じて、今年の映画からは「過去作と路線を変えよう」という意思を感じた。
このような映画をF先生の生誕90周年にぶつけてくるあたり、制作陣の意図を感じる。

終わりに

本稿では、『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』をレビューしました。

ざっくりまとめると、
映像と音楽は神。ストーリーには議論の余地あり。
という感じです。

上述の通り、本作は過去作と異なるテーマ設定・展開なので、単純に比較するのが難しいと思いました。

ただ、やはり音楽の魅力を子どもたちに伝えるという点では素晴らしい作品です。この映画を観て「楽器を習いたい」と言い始める子どももいることでしょう。

できることなら私も幼少期に戻って鑑賞したいです。
ストーリーが~とか、設定が~とか細かいことを考えてしまう大人になってしまった、、

まーーーでもドラ尻がかわいかったのでオールオッケーです!!

いつか自分に子どもができたら一緒に観直したいなあ。


最後までお読みくださりありがとうございました!

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