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母の死の話。

皆さまこんにちわ。いかがお過ごしでしょうか。

 さて、死に物狂いで債権回収をしているときに姉から電話がかかってきて、お母さんが危ないと連絡を受け、頭の中真っ白、目を血走らせながら、すっ飛んで行きました。

その日は雪が吹雪いて暗い夜道に雪が激しく川のように流れ、飛ぶような天候だったのを覚えています。ただ見えるのはヘッドライトに照らされているところだけで、急ぎたくても飛ばせない苛立ちを抑えながらやっとのことで日本海が目の前の病院に着いたのは確か夜中だったと思います。もはや誰もいないロビーに姉が出迎えてくれて病室に入りました。
シーンとした病室では日本海の海岸線に打ち付ける激しい波の音と吹雪の風の音で窓がガタガタと鳴っているのが妙に耳に付いた。

姉は当時大きい都市の病院の婦長をやっていたと聞いていました。なので、やけに冷静に話をされた記憶があります。多分そうしていないと自分が持たなかったのだと思います。

母は再婚していてその旦那さんも病室に居て優しく出迎えてくれました。そして着替えを自家に取りに帰りたいから少しだけ様子を見ててくれないかと頼まれ、病室を出て行った時に弟の顔を見たいと小さい声で搾り出すように母に言われたことと、「来てくれてありがとう」と言われた後少し経った時に母の容態が急変し、ナースコールで担当医を呼びました。

そして処置してもらい担当医が出て行った後に姉が「どうする?」とポツリ。何が?と聞いたら「このままだと植物人間のままになるねん。」とまたポツリ。多分再婚相手の旦那さんに言ったらこのままの状態ですごい負担になると思う、、と言った。

母はガンだったけど薬も飲まず10年くらい我慢し、戦ってきたらしい。想像を絶することを耐えていた。握っていた手も反応が無くなったけど温かいままだった。

私はもう楽にさせてあげようと姉に言った。当時も今も許される事ではないのだけれど、生命維持装置のパワーを二人でOFFにした。
母の目から一筋の涙がツーと落ちたのを見て、大変なことをしてしまったのかも知れないと思っていた私の背中を優しく姉が撫でた。
そして担当医を呼び、臨終が告げられた。母を殺してしまったと言う罪悪感と恐ろしく怖い感情で立てなくなった。そしてそれを受け入れられなくてその後の葬式や入墓にも出ずに私は姿を消した。とてもじゃなくその場に居れなかった。

優しかった爺さんや叔父さんが死んだ時も全く悲しく思わなかった私だったけど、枯れてしまうんじゃないかと思うくらい涙が出た。本当に感情が捻じ曲がったように交錯し、車の中で喚いていた。

それからは何か分からないけど大きすぎて全体が見えないようなトラウマを抱えたような感じでした。
このことが有ってから、お年寄りや年配の方には親切に接するようになった。無意識で何かの罪滅ぼしをしているのかも知れない。
お母さん、ごめんね。

親孝行、したい時分に親はなし、、とは本当に身に沁みました。
それと同時に何て残酷な諺なんだろうなとグサグサと刺さりました。

今回もお読みいただき感謝します。ありがとう。


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