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「狐と祭りと遊び上手と。」第九話

 空狐と気まずいまま数日が経った。
 小珠が浴衣を着て夕涼みをしていると、一体の気狐が「二口女さんが来ましたよぉ」と呼んできた。
 また来てくれたのか、と驚きながら駆け足で二口女を迎えに行く。屋敷の入り口付近で二口女が気狐と笑い合っているのを見て嬉しくなった。狐の一族が嫌いとはいえ、気狐とは少し打ち解けているようだ。気狐の対話力が為せる技だろう。

「二口女さん、こんばんは」
「あら、小珠。今日は河童からの贈り物を届けに来たのだけど……その後どうかしら? 市へはまだ来られないの?」

 二口女に急かされぎくりとした。
 本当は、あの後すぐにでも空狐に二口女から教えてもらった町の現状を報告し、市へ行く許可を取ろうと思っていた。しかしあれから数日――空狐とは目も合わせられていない。
 風呂敷で包まれた河童からの贈り物を受け取りながら、どう伝えようか迷う。こんなものを二口女を通して渡してくるということは、河童も小珠の帰りを待っているのだろう。

「小珠ちゃん、最近空狐様を避けているのではないですかぁ?」

 気狐が言い当ててくる。同じ屋敷にいる彼女たちにはお見通しらしい。

「市へ行きたいのでしょう? どのみち、天狐様か空狐様の許可は必須ですよぉ」
「天狐様よりは空狐様の方が許可は出やすいのではないかと思いますよぉ」
「空狐様、小珠ちゃんに弱いですもんねぇ~」

 二体の気狐たちがくすくすと笑いながら言った。
 そして、ふと気付いたように「こんなところで立ち話もなんですし、応接間にご案内しますよぉ」と二口女を屋敷の中まで連れて行く。小珠もその後に付いていった。

 応接間では小珠よりも気狐たちの方が二口女と盛り上がっていた。気狐たちは美しい二口女の美容に興味があるらしく、「お肌綺麗ですねぇ~何かされてるんですかぁ?」などとはしゃいでいる。
 河童からの贈り物は鈴のお守りだった。りんと小さく音がする。

(可愛い……)

 さすが女を口説き慣れている河童の選んだ贈り物だ。感心していると、二口女が補足説明をしてくる。

「それ、無病息災のお守りよ。河童は小珠が病でふせって市に来ないと思ってるの」

 確かに、あれだけ毎日市で店を出していた小珠が急に長期間来なくなれば、そう考えるのも不思議ではない。心配させてしまっているのが申し訳なくなった。
 俯く小珠を他所に、二口女と気狐たちの間では恋の話が始まった。気狐は恋の話が本当に好きだ。

「二口女さんの恋人さんはどんな方なのですかぁ? こんな美人の恋人さんなのですから、さぞお美しいんでしょうねえ」
「あっ、ここに紙がありますよぉ。似顔絵書いてみてくださぁい。わたくしも書きますぅ」

 小珠の前で突然似顔絵大会が始まった。気狐たちは見た目が全く一緒であるにも拘らず、「男はやっぱり吊り目よねぇ」「いいえ、顎髭よぉ!」と異性の好みの意見は食い違っていた。
 二口女は静かに、一つ一つ思い出すように、紙に男性の顔の部位をゆっくりと描いていった。絵画で生計を立てられるのではと思うくらい上手だ。
 ――その時。

「えっ。この男なら、この前港町で見かけましたよお」

 隣の気狐が驚いたように目を見開いて言った。
 気狐は普段外の町との交易を仕事にしている。きつね町の外部にもよく行っている者たちだ。どこかで二口女の恋人を見かけていてもおかしくはない。

「み、港町というのは」

 余程驚いたのか、珍しく二口女がどもっている。小珠も思わず気狐を凝視した。

「山を一つ越えて向こう側に、お船が発着する都市がありましてぇ。外のお国からの文化を盛んに取り入れている、きつね町とはまた一風変わった場所なんですけれどもぉ……この方、確かに美形ですから、わたくしたちもお声がけしたのです。確か造船業をやっていた方だったような……」
「それは確かなんですか?」

 身を乗り出して問いかける。

「ええ。わたくし達、こう見えて記憶力は良いのですよぉ。一度見た顔は忘れません」
「――行きましょう、二口女さん」

 気狐の言葉を聞いてすぐに、小珠は立ち上がった。

「ええ!? だめですよぉ!」

 ぎょっとした様子で小珠の袖を掴んできたのは気狐だ。

「小珠ちゃんは、この町を出ることはおろか、屋敷から出ることも今は禁止されているのですよぉ!? それに港町といっても広いですし。行ったところで必ずこの男性に会えるという保証はどこにも……」
「それに、外に出るのは一般の妖怪には非常に危険です。現在は妖怪と人間の棲み分けが明確に行われ人間の間で妖怪の存在が否定されるようになってきたとはいえ、まだ妖怪の妖力を悪用しようとする輩も一部にはいるのですぅ」
「天狐様や空狐様から許可が下りるとも思えませんしぃっ」

 あわあわと矢継ぎ早に小珠の両隣から制止してくる気狐二体に微笑みを返す。

「私は元々、人間の村で生まれ育ちました。その辺の妖怪よりも人間らしくできると思います。人間には妖力を感知する機能がないのでしょう? 見た目的には、私達が妖怪であるとは誰にも分からないのではないでしょうか」
「そう……ですけどぉ……」
「二口女さんの恋、応援したいですよね? 気狐さんたちも、人間の男性に恋しているのでしょう」

 気狐たちは着物の袖で口元を隠しながら目を見合わせ、数秒して覚悟を決めたようにこくりと頷いた。

「……分かりました。明日の早朝、共に出かけましょう。ただし、見つからなくても夕食までには戻りますよ。あと護衛の野狐も数体連れていきます」
「まったく……小珠ちゃんは、時々強気で大胆なところがありますよねぇ」

 気狐たちは呆れたような苦笑いを浮かべているが、嫌な感じはしなかった。

 ◆

 夜、こっそりと荷物を纏めていると、小珠の部屋にキヨが入ってきた。お茶をいれたから一緒に飲もうとの誘いだ。
 小珠はキヨと一緒にちゃぶ台を囲みながら、明日きつね町の外へ行くことを伝えた。

「一人で行くのかい」
「ううん。気狐さんと野狐さんと、二口女さんと一緒だよ」
「空狐は行かないのか」

 小珠はキヨから目をそらし、悪いことをする子供のように小さな声で言った。

「……空狐さんには内緒で行くの」
「おや」

 がっはっは! とキヨは面白がって笑う。

「小珠も、逞しくなったねえ」

 キヨが呟く。

「もう、わしがおらんでも立派な娘さんじゃ」

 ――誇らしげな、どこか寂しげなその声の意味を、この時の小珠は知らなかった。


 ◆

 暁月が見える頃。小珠は、気狐たちとの約束通り屋敷の門まで向かった。一日探していては腹が減るだろうと思い、おむすびも持ってきている。
 門前には既に二口女たちが集まっていた。

「……小珠、折角外へ行くのに質素な格好ね」

 二口女が不思議そうに見つめてくる。小珠は山に登りやすいよう、動きやすい格好をしてきた。農作業にも耐え得る木綿でできた衣服だ。

「山を越えるんですよね? 私、朝から準備体操をしてきましたよ!」

 威勢よく言うと、気狐にくすくすと笑われた。

「小珠ちゃん、まさかわたくし達が一族の長の花嫁にこのような長距離を歩かせるとお思いですかぁ?」
「え? 違うのですか?」
「失礼しますねえ。小珠ちゃん」

 一体の気狐が小珠の背中と膝裏に腕を回す。小珠は抱き抱えられている状態となった。気狐が地を蹴ると、小珠の体は気狐たちごとふわりと軽やかに宙に浮いた。

「えええ!?」

 後ろからもう一体の気狐は二口女を抱え、空中を付いてくる。二体の野狐たちも当然のように地を蹴って浮遊した。
 小珠はその様子を見て口をぱくぱくさせることしかできない。

「我々は妖力を用いて空を飛ぶことができます。少し時間はかかりますが、小珠様はしばし空中浮遊をお楽しみください」

 気狐は妖艶に微笑み、更に上空へと向かう。

「これが……狐の一族の力……」

 どうやら二口女も呆気にとられているようだった。

 太陽が昇る頃、山を越えた。空から見下ろせば、見たこともない大きな船が桟橋に停泊している。付近の倉庫には外国からの舶来品が積まれているようだ。
 異文化を取り入れた外国風の建物が立ち並んでいる間に、小珠を抱えた気狐が静かに舞い降りた。その後ろに二口女を抱えている気狐が、最後に野狐が続く。まだ人通りは少なく、空から降ってきたことは誰にも見られていない。
 煙を上げる工場の中からは大きな機械音が漏れている。細い道を通り抜け、大きな道に出た。そこは港町の問屋街らしい。きつね町でもよく見る屋台や民家もありつつ、中心には洋風な建物が立ち並んでおり、〝喫茶店〟という見慣れない漢字の看板まである。異界に来たような気分だ。何もかもが珍しく、小珠も二口女もきょろきょろと辺りを見回す。

「外の町はこんなに変わったのですね……」
「外国の文化を取り入れ始めたのは最近ですよぉ。でも、急速に変化しだしてますよねぇ。というか、小珠ちゃんは元々人の住む場所にいたのではないのですかぁ?」
「私がいたのはここよりもっと自然豊かな村なので……」

 こんな場所は初めて見たと言うと、気狐は微笑ましそうにうふふと肩を揺らした。

「では早速、二手に別れて聞き取り調査しましょう。二口女ちゃんは船の方を、小珠ちゃんは町の方を。今日一日では見つからないやもしれませんが、夕方になる前には集合しましょうねぇ」

 慣れない土地で二手に別れたらどちらかが迷子になってしまうのではないかと不安になる小珠に、気狐たちが得意げに付け加えた。

「わたくし達気狐同士、野狐同士は離れていても意思疎通できますので、心配ありませんよぉ」

 狐の一族とは、どうもかなり便利な性質を持っているらしい。しばらく一緒に住んでいても知らないことだらけだと感心した。

 汽笛が遠くで鳴り響き、町は徐々に活気づいていく。
 小珠は、人々に二口女が描いた似顔絵を見せ、この顔の者を見ていないか聞いて回った。
 ほとんどの人は忙しいのか小珠が声をかけても無視するか厄介そうに適当な返事をしてくるのみだった。立ち止まって話を聞いてくれる優しい婦人たちもいた。
 気狐も色んな人に声をかけてくれたが、昼過ぎまで手がかりは全くなく、お腹が空いてきたのでひとまず座って休憩し、持ってきたおむすびを食べた。護衛の野狐にも分け与えると喜んでくれた。

「あら。ウメさんではないですか?」

 そうしていると、洋服姿の一人の婦人が小珠たちの前で立ち止まった。ウメという名前に聞き覚えがなく首を傾げる。次の瞬間、隣の気狐が勢いよく立ち上がって婦人の手を取り、いつもより更に高い声を出す。

「あらあらあらぁ! お久しぶりですぅ。元気にしておりましたかぁ? そちらのお着物にはいつも大変お世話になっておりますぅ」
「いえいえ。ウメさん、最近いらしてくれないから寂しかったのよ」

 ウメというのは気狐の偽名のようだ。人間の前ではそう名乗っているのだろう。そして、この様子を見る限り、この女性は気狐が取り引きをしている相手の一人なのかもしれない。

「今日はどうしてこちらに?」
「それが人探しといいますか。駄目元で聞くのですけれど、あなたこのお顔に見覚えありますぅ?」

 気狐が婦人に絵を見せると、婦人が感心したように頷く。

「あら、お上手な絵ね。この人知ってるわ。あっちの貸家に住んでるわよ」

 小珠は驚いて立ち上がる。今日初めて得られた情報だ。

「……それは確かで?」
「ええ。造船業をしている方でしょう。凄く力持ちで有名なの。ただ……あまりお近付きにはならない方がいいわ。悪い噂もあるの。夜に海に浸かりに行っているとか、そんな不気味な噂……」

 婦人が声を潜めて言う。
 二口女の元恋人は海で過ごすのが一般的な妖怪、海坊主だと聞いている。人里で生活していても、たまに元の生活様式に戻りたくなる時があるのだろう。

「ありがとうございます。少しこの方に用がありますので、わたくし達はこれにて失礼します」
「待って、ウメさん。教えておいて何ですけれど、あの付近に行くのはやめた方がいいですわ。海に浸かっているという噂以前に、あの貸家の近くにはよく分からない宗教団体の集会に使われている広場がありますの」
「ああ、最近は海外の宗教が伝来しておりますもんねえ」
「海外の宗教ではありませんわ。古くからの変な信仰といいますか……。妖怪信仰? だとか聞いたことがあります。ほら、陰陽師って聞いたことあります? 今時妖怪って、と思いますけれど、あの連中は陰陽師を名乗っていて、本気でそういうものの気配を感じるだの何だのと言って町の住民にも変なことを聞いて回っているのですよ。ウメさんたちも巻き込まれるかもしれません」

 婦人の言葉を聞いた気狐の顔が強張った。しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻る。

「心配してくださってありがとうございますねぇ。気を付けながら向かいますわ。また、そちらのお着物仕入れさせて頂きますので、何卒」

 婦人と別れた後、気狐が難しい顔でぶつぶつと呟いた。

「おかしいですねぇ。わたくし何度もこの町には来ていますけれど、妖怪信仰の存在を聞いたことはありませんでした」
「……その人達がやってきたのはかなり最近ってことでしょうか」
「そうかもしれません。二口女ちゃんの恋人の家の近くで集会を行っているのも気になります。まさか、海坊主の気配を嗅ぎつけて……?」

 貸家へ向かいながら気狐と並んで喋っていると、突然、一歩後ろを歩いていた野狐が小珠の腕を無言で掴んで引っ張ってきた。
 立ち止まって振り返る。野狐は懐から紙を取り出して筆で字を書いて見せてきた。

〝もどろう 小珠〟
〝いやなよかんが する〟

 野狐がこのようなことを言うのは初めてだ。
 すぐそこに二口女の元恋人の家があるかもしれないとはいえ、警戒はしておいて損はない。一度二口女たちと合流してから情報をすり合わせよう――そう思って口を開いたその時。

 音もなく、和服姿の男が小珠の隣に立っていた。

「匂いがする……九尾の狐の匂いだ……」

 低く、やや掠れた声。嗅いだことのないはずの独特の梅が香がした。次に、何故かその匂いに覚えがあるような不思議な感覚に陥る。

「まだ生きていたのか……」

 動けない。隣に立つ男の威圧感に圧倒されて身動きが取れない。
 辛うじて目だけで彼を見上げる。
 漆黒の髪をした人間。見たこともないはずの彼のことを、憎い相手によく似ていると思った。


 瞬時に動いたのは気狐と野狐だった。小珠と黒髪の男の間に入り込み、庇うようにして立ちはだかる。

「小珠ちゃん、お下がりください」

 いつもはゆるゆるとした喋り方をする気狐の真剣な声音に驚き、慌てて後退りする。しかし、いつの間にか他にも人間が集まっており、狭い路地の出口を塞いでいる。野狐が小珠の背後を守るようにぴったりとくっついてきた。

「嫌な気配……。こいつら只者ではないですねえ」

 気狐がそう呟き、着物の懐から武器を取り出した。

「幼少期の玉藻前様を捕まえて監禁し、妖力を余すことなく利用した連中の末裔でしょうか」
「その通り! 妖狐よ、生きていると思ったぞ!」

 男が目を大きく見開いて笑い、懐から呪符を出して投げつける。気狐はそれを払い落としたが、呪符はまるで意思を持つかのように動き、気狐の足を掠めた。すると、掠り傷であるにも拘らず、気狐の細い足から大量の血が噴き出す。
 気狐が足を押さえて蹲る。同時に、野狐が小珠を抱き抱えて地を蹴った。

(あの御札……夢で見た玉藻前の体に貼られていたものだ)

 空中から男の呪符の文字を見て確信する。

(もしかして、玉藻前を石に封印したのもあの人達……?)

 玉藻前は、陰陽師に正体を見破られ討伐軍に追い詰められて石に封印されたと聞いている。もしその末裔がまだ生きていたとしたら。
 いや、あの男は気狐の発言も肯定していた。以前銀狐が言っていた、妖力をうまく扱えない子供の妖怪をさらって人間の都合の良いよう利用していた連中というのも、彼らということになる。
 ――彼らが玉藻前の憎き相手の末裔なのかもしれない。どれだけの時が経っても、妖怪を狙い続けているのだ。

 素早く路地裏から離れて地に降り立ち、走り続ける野狐を、黒髪の男の仲間らしき人物達が追ってくる。彼らは黒髪の男と同じ呪符を使い、野狐の腕を切り裂いた。野狐は声もあげずに崩れ落ち、枯れたような声で指示してくる。

「ふねの、近く、に、いる」

 野狐が声を発したのは初めてだ。この事態の異常性を実感する。

「そこ、まで、にげて」

 船の近くというのは、二口女達のことだろう。

(私には何もできない。ここで捕まったら、最悪人質になってしまうかもしれない)

 血が出ている野狐のことは心配だが、それよりも二口女の方にいるもう一組の野狐と気狐に応援を頼んだ方がいい。
 小珠は瞬時にそう判断して踵を返し、走り出した。緊急事態のためか、いつもより自分の内の妖力が暴れているような、変な心地がした。むずむずとした感覚が体を駆け巡る。

(早く、早く二口女さん達に――)

 焦る気持ちと同時に、思い出すのは地を蹴って宙へ浮かび上がった気狐の様子だ。妖力を利用してあんなことができるのなら、小珠にもできるのではないか。
 行き交う人々にぶつかりながら走り続け、何度も何度も今朝の気狐の妖力の扱い方を反芻する。最近ようやく掴めるようになってきた妖力の動き――それを頭の中で繰り返しているうちに、ふわりと体が軽くなる感覚がした。

「あ、あれは何だ!?」

 周囲を歩いていた人々のざわめく声が聞こえる。
 しかしその声はすぐに遠くなった。小珠が空高く舞い上がったからだ。

(え、え、えええええ!?)

 小珠の体は小珠の意図に関係なく物凄い速さで宙を移動した。港町を越え、山に向かって飛んでいく。小珠を追ってきていた人々は遥か遠くだ。
 空中でどうしていいか分からず手足をばたばたさせているうちに、突然勢いは止まり、体が急速に落下していく。

(し、死ぬ……っ!)

 近付いてくる地面を見ているうちに、小珠の意識は遠退いていった。

 ◆

 りん、と鈴が鳴る。河童がくれた鈴だ。
 その音で目を覚ました小珠は、全身に痛みが走って呻いた。身体があちこち傷だらけだ。周囲に折れた枝が大量に落ちている。山の木々の上に落ち、枝に引っかかって衝撃が和らぎ、何とか生きていられたらしい。

(あれだけの高さから落ちて生きてるなんて……。私が人間ではなくなってきてるってことなのかな)

 起き上がろうとしたが痛みで動けない。
 周囲は暗く、空には丸い月が見えている。

(気狐さんと野狐さんの元へ行かないと)

 夜になっているということは、あれから相当な時間が過ぎているということだ。気を失っているうちに気狐達は奴らに殺されてしまったかもしれない。あんな物騒な人々がいる町となると、二口女も無事か分からない。

(私が人の町へ行こうなんて言ったから)

 怖い。不安で泣きそうだ。もう子供ではないというのに。

(私、何も知らなかった。妖怪にとって人間がこんなに危険だなんて想像もしていなかった)

 無知で気狐たちを危険な目に遭わせてしまった罪悪感で一杯になる。気狐は止めてくれたのに、かつて住んでいた村へ行くような感覚で人里に降りてしまった。全部自分のせいだ、と思えば思うほど悲しい気持ちになってくる。

 ――……その時、人形《ひとがた》をした紙が一枚、小珠の元に飛んできた。

『小珠様。ご無事ですか』

 空狐の声だった。

「…………」
『まだ口を利いていただけませんか』
「……空狐さん、で合ってますか?」
『はい。こちらは連絡用の紙人形です』

 人形の紙は空狐の声に合わせて動く。

『妙な物が屋敷に入り込んでは困りますので、外部からの贈り物には全て僕が細工を施してあります。貴女が河童からもらった鈴にも僕の妖力を込めておいて正解でした。おかげでこうして、最後に音が鳴った場所に紙人形を向かわせることができます』
「空狐さん、ごめんなさい。私、港町へ来ているんです。それで気狐さん達が襲われて……私が無理にきつね町から連れ出したせいで……早く助けに行かないと……」

 しどろもどろに状況説明をする。しかし、空狐は焦り続ける小珠とは裏腹にとても落ち着いていた。

『状況は把握しております。というか、港町へ行くことは前日に気狐から聞いておりました。このような事態を想定できなかった僕の責任です』

 空狐の言葉に驚く。空狐からの許可は出ないだろうと推測していたので、てっきりここまで来られたのは気狐が空狐に隠しているからなのだと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。

『気狐と野狐は僕に絶対服従しています。例え貴女が隠したがっていようと、僕に許可を取らずに外へ出るなんてことはないんですよ。僕は、きっと今回は止めても言うことを聞かないだろうと思って黙認しました』
「本当に申し訳ありません……私のせいで、気狐さん達まで危険な目に遭いました」
『気狐も野狐も無事です。特に野狐は戦闘訓練を受けていますから、人間如きであれば一体で数十人は相手できますよ』
「でも、襲ってきた人達は不思議な札を使っていたんです」
『ご心配なく。既に彼らの無事は確認できておりますし、一度屋敷に戻ってきています。二口女も狐の一族の保護下にあります。……問題は、小珠様。貴女の居場所が特定できないことです』

 そう言われてはっと気付く。そういえばここはどこなのだろう。山であることは確かだが、ここからどうやってきつね町まで戻っていいか分からない。

『鈴に付けた妖力のみが頼りです。それも、遠く離れている場所ではうまく機能しません。辛うじて紙人形を届けることはできていますが、何か手がかりがなければ僕は貴女を見つけることができません』
「では、自力で帰ります」

 小珠は何とか上体を起こし、傷だらけの足で立ち上がった。

「これ以上ご迷惑をおかけすることはできません」

 山を下りれば人里があるかもしれない。そこで元々住んでいた村への行き方を聞こう。何日かかるかは分からないが、住んでいた村からきつね町への行き方なら何となく覚えている。

『小珠様。僕は貴女の行動を迷惑だと感じたことは一度もありません』

 痛み続ける片足を引き摺るようにして歩く。小珠の後ろを紙人形が付いてきた。

『むしろ感謝しているくらいです。突然連れてこられたにも拘らず、きつね町のことを好きになってくれて、必死に変えようとしているでしょう。きつね町の変貌は、貴女の責任ではないというのに』
「変えたいなんていうのは私の身勝手な願望です。それに周りを巻き込んで、無理やり付き合わせた結果がこれでは……」

 言葉の途中で、大きな石に躓いて前方に転けた。りんとまた鈴が鳴る。

『小珠様。頼みますから無理に動かないでください』

 言われずとも、もう動けない。転けたせいで辛うじて体重を支えられていた方の足も挫いてしまった。自身の無力を感じ、小珠はきゅっと唇を噛む。

『その紙人形を食していただけませんか』
「……え?」
『僕の妖力と血を込めて作った紙人形です。多少抵抗はあるかと思いますが、それを食すことによって狐の一族としての力が一時的に解放されるはずです』
「解放されたら、どうなるのですか」
『僕が必ず貴女を見つけます』

 ごくりと唾を呑み込んだ。紙を食べるのには抵抗があるが、動けないこの状況で小珠にできるのは空狐の指示に従うことだけだ。
 ゆっくりと手を伸ばし紙人形を掴む。折りたたんで小さくしてから、覚悟を決めて口に含み、呑み込んだ。

 ――その瞬間、妖力が暴れるような感覚があった。その感覚が山まで飛んでしまった時のものと似ていて恐ろしくなる。紙人形がなくなったことで、空狐の声はもう聞こえない。また妖力のせいでどこかへ飛んでいってしまうのではないかと不安になり、目を瞑って体を丸くした。できるだけ妖力を外へ放出させないように意識しているうちに、臀部がむずむずしてきた。

(こんな時に何……!?)

 痒いようなその感覚に思わず尻を手で押さえたその時、小珠のその部分から、衣服を突き破るようにして尾が生えた。

「え!?」

 尾の数はどんどん増えていき、九本もの動物の尻尾のようなものが小珠の意思に反して動く。しかもその尾は光り輝いており、暗闇の中では大層目立つ。
 何だか恥ずかしくなって慌てていると、空から何かが近付いてくる気配がした。驚いて顔を上げる。傷だらけの小珠の隣に降り立ったのは、空狐だ。

「迎えに上がりました。小珠様」

 ――――……まるで、村の寂れた神社に小珠を迎えに来たあの日のように。空狐は小珠のことを迎えに来てくれたのだ。

 『空狐はんのどこが好きなん?』と銀狐に聞かれたのを思い出す。

(私を、見つけてくれるから)

 幼いあの日も、キヨが病で臥せって孤独に生きていたあの時も、空狐は小珠のことを見つけてくれた。

「は、早いですね……」

 思わずそんな言葉が漏れる。

「ある程度目処は付いていましたから。すぐそこにいましたよ」
「てっきり屋敷にいるのかと……」
「小珠様がどこにいるか分からない状態で、悠長に屋敷でゆっくりしているはずがないでしょう」

 尻尾を押さえて座っている小珠と目線を合わせるためか、空狐が屈む。じっと見つめられ、どきどきしてしまって視線を逸らすと、空狐に溜め息を吐かれた。

「僕、何回貴女に避けられればいいんですか」
「……すみません……」
「あれから一度も目を合わせてくれなくなって、寂しかったんですが?」

 寂しいという言葉を聞いて罪悪感が募り、顔を上げる。
 ――刹那、空狐が小珠の唇に自身の唇を軽く重ねた。
 小珠は驚いて目を見開く。

「え、あの、」
「あの時、し損ねたので」
「まってください、私さっき転けたから汚いし、口も切ってて血だらけだし」
「どうでもいいです」

 また空狐の顔が近付いてくる。抵抗する力も出てこず、目を瞑って受け入れた。
 何度か接吻を交わした後、空狐がぽつりと呟く。

「好きというのが、僕にはよく分かりません」
「はい……」
「ただ、小珠様のことを愛しいとは思います」
「……嘘」
「本当ですよ。毎日一生懸命仕事している貴女も、明るくお転婆で周りを巻き込んでいく貴女も、時々こんな風に心配をかけさせてくる貴女も。小珠様がいなかった時より、退屈しなくて困る日々です」

 ふ、と空狐が苦笑いする。

「正直、久しぶりに迎えに行った時は、小珠様の変化に驚かされました。妖力を得られないままでいると、成長速度も人間と同様になるのですね。僕の中の小珠様はもっと小さかったんです。婚姻の儀はするけれど、当分子などはなせないと思っていました。僕と結婚するとはいえしばらくは子供のように屋敷で遊んでいてくれたらとそう思っていたのに……貴女は予想外の動きばかりする」
「…………今、〝僕と結婚〟とおっしゃいましたか?」
「はい」
「…………えっと……私って空狐さんと結婚するのでしたっけ……?」

 最初の説明を聞き間違えていたのかと困惑していると、空狐は申し訳無さそうに眉を下げる。

「本来は僕との婚姻です」
「ええ!?」
「すみません、僕が慎重になりすぎました。玉藻前様のことは正直苦手だったのですよ。妖力が強いとはいえその生まれ変わりと結婚させられることに抵抗がありました。貴女がどのような人間なのか前もって見極めたかったのです」
「そうなのですか……? じゃあ、私が秋に結婚するのは天狐様ではなく空狐さん……?」
「はい。試すような真似をして申し訳ありませんでした」
「そ、それはいいのですけど! むしろ道ならぬ恋じゃなくてよかったのですけれど……!」

 なかなか言われたことを頭の中で処理できず、あわあわと歯切れの悪い反応をしてしまう。

「これからは改めて、婚約者としてよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、不束者ですが……」
「それから、あまり避けられるのも悲しいので、今後三回以上僕を避けたら屋敷に軟禁されると思ってください」
「軟禁!?」

 柔らかい笑顔で発せられた恐ろしい言葉にぎょっとする。
 冗談か本気か分からないことを言ってくすくすと愉しげに肩を揺らした後、空狐は小珠の膝裏に手を回して抱きかかえた。

「帰りましょうか。きつね町へ」
「〝帰る〟……」
「どうかしましたか?」
「いえ。いつの間にか、きつね町が私の帰る場所になっているんだなと思いまして」

 今日は色んなことがあった。疲弊した身で帰りたいと願う場所は、キヨや野狐、気狐や銀狐たちがいるあの屋敷なのだ。少し前まで住んでいた村ではなく。

「なら嬉しいです。これから僕も、小珠様の帰る場所を、もっと小珠様が住みやすい場所に変えていきます。次期当主として」

 そう言って、空狐は地を蹴って空へ飛び上がった。



次話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n81ade52f48fd


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