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クイーン×ディズニー考察8~アラジン3~本題の本題

ディズニーの「アラジン」(1992)のモデルの一つはクイーン、特にフレディ(1991没)であるというのが、今回の仮説の肝である。


それでは、妄想の世界にようこそ。


ボウイ起源説

これは私の妄想である。


まずさかのぼる。


デビッド・ボウイが1972年話題作「ジギー・スター・ダスト」の次で「アラジン・セイン」というアルバムを翌年作る。

「ジン・ジニー」や「アラビアの神秘」という曲もある。


アラジン・セインは、

アラビア的なタイトルだが、曲はジャズピアノが入り乱れ、サイケデリックなビートルズのようなサウンド。


この後、アブドゥルマジドさんとも結婚するので、イスラム的な世界と通じていたのではないか。


そもそもイギリスやヨーロッパにはアラブ系やいろんな民族の移民や自由人がこのころから多かったと思われる。


フレディの家族のように、ザンジバルから亡命したアラブ系の人もごく一部いたかもしれない。


1970年前後、フレディ(ヒゲ無し長髪)とドラムのロジャーさんの洋服店「ケンジントン・マーケット?(ケン・マート)」にボウイがやってきて、

フレディはどうしたら芸能界に入れるか聞いて、ボウイはなぜそんなものになりたいんだと答えたとか(デビューは早いがボウイの方が少し歳下)。

フレディはボウイにブーツを売ろうとしてプレゼントしたとか、ローディーをやったとかいう話もある。


当時奇抜な恰好で界隈でも有名人だったフレディ(まだクイーンは売れてない)に、ボウイは何か着想を得たかもしれない。


ボウイは、とにかくアラジン・セイン(まともなアラジン?)を書いて、

少しアラブ系の中東系の扉を開きつつあった。


そして、他にも「美女と野獣」や「ライオンのジョー」など、後のディズニーっぽい曲を1970年代後半のベルリン3部作時代に作っている。



そして、ケン・マートの後も、クイーンも売れてくる。

そもそも、クイーンは、ボウイやエルトンの使っていたトライデント・スタジオから始めている。

初のヒットの、映画「ボラプ」にもあった「輝ける7つの海」も

ボウイがドタキャンしたTOTP(トップ・オブ・ザ・ポップス:イギリスのNHKみたいな歌のテレビ番組)に出演し、ビジュアルが話題となったのがキッカケ。

映画にもTOTPのシーンはキラークイーンの形でてきた。


つまりボウイはクイーンの守護天使である。


フレディの奇妙なバレエ・タイツ(1976~1978年、30代)姿も、

すでにボウイが70年前後から生足丸出しの水着みたいなのと厚底ブーツを着ていたし、化粧も女装もする(しかも違和感特になし)し、

この「宇宙からやっていたバイセクシャル、ジギー」も、ロンドン1973年の舞台「ロッキー・ホラー・ショー」の元になったかも。


そもそも60年代のビートルズの時点でインド(思想とか)に傾倒したり、レノンがヨーコさんと結婚したり(衝撃)、オリエンタルなムードは出ていた。

70年代のレッド・ツェペリンも「カシミラ」など、アラビア砂漠風もある(フレディの妹さんの名前でもある)。


そして、ついにQueenとボウイは、1981年スイスのモントルーのスタジオで楽曲「アンダー・プレッシャー」をコラボ。話題となる。MVは日本の満員電車から始まる。どちらも日本通。


フレディはボウイにボーカルのメインを譲り、しかし、ライブではクイーンのみの演奏となる。

1992年フレディの追悼ライブではボウイはスコットランド出身のシンガーのアニー・レノックスと歌い、その後では自身のライブでも何度か歌ったそうな。


この曲は映画「ボラプ」でも挿入歌として出てきた。ベースがかなり有名で、私は映画を見るまでクイーンの曲とは知らなかった。


Queenとボウイは、(それまでともにイギリス滞在は少なかったと思うが)1985年のライブ・エイドでも再開し、メンバーたちと和やかな姿が残っている。


このようにボウイとはところどころ、切っても切れない縁にある。ありがとう、ボウイ様。追悼。


クイーン・サウンドとアラビア音階

それではクイーン側のアラビア色の考察に移る。


QUEENでは、

主にフレディがアラビア色を出すことがある。


まずは、

3作目アルバム「シアーハートアタック」(1974)から「フリック・オブ・ザ・リスト」というマネジメントへの怒りの曲。


4作目「オペラ座の夜」からその発展型の「デスオントゥーレッグズ」。オープニング・トラックであり、冒頭のギターの怒りの演奏がアラブ的。 ​

クロージング・トラックともいえる「ボヘミアン・ラプソディ」の「ビスミッラ」。(本当の最後はイギリス国家「God Save The Queen」)


5作目の「ラバー・ボーイ」の一部(hot seat of loveの直後)。

(ちなみにアルバムの最後はブライアンの日本語曲「てをとりあって」で、アラビアと同じく5音階という日本音階だと思う。)


6作目はアメリカ路線といわれ、

代名詞の一つでもあるウィー・ウィル・ロック・ユーとチャンピオンが含まれる。

アラビア風はとくにないと思うが、スパニッシュ・ギターのカリプソ風があったり、パンクがあったり、ジャズで締められる。


そして、

7作目のJAZZが一番アラブ色


まずオープニングトラックは

「ムスターファ」。

アラビア語のロック。

もとはユダヤ人が「ムスターファ」という曲を昔作ってヒットしていた。

イブラヒム。アッラー・アクバル。

こんにちはなどの意味らしいが、意味は不明。


ピアノ曲「ジェラシー」も。


ブライアンの「去りがたき家(Leaving Home Ain't Easy)」も冒頭はギターがアラビアちっく。


他のJAZZの楽曲は、多国籍。

「ファット・ボトムド・ガールズ(B)」はムーラン・ルージュ風?あと「バイシクル・レース」はツールドフランスやヨーデル。「レット・ミー・エンターテイン・ユー」もフランス語が多用される。「ドリーマーズ・ボール(B)」は米メンフィスのエルビス追悼。

あまりイギリス色がないようなアルバムである。「ドント・ストップ・ミー・ナウ」のレディー・ゴディヴァや「バイシクル・レース」のロールス・ロイスやピーターパン、フランケンなどちょっとイギリス原産のものもあるが、

ハリウッド映画やコーラ、大統領などアメリカ文化も多い。

「モア・オブ・ザット・ジャズ」は、ボブ・フォッシーのミュージカル「シカゴ」の「オール・ザット・ジャズ」から?ライザ・ミネリも踊る。

後は休暇だったり、ツアー中だったりの曲。


このように、ジャズ自体がアラビアだけでなく多国籍な作りとなっている。(私は「バイシクル・レース」の本質もそうだと思っている。)


アラビア風が3曲ぐらい含まれるジャズの後は、

8作目「ゲーム」でアメリカから世界を制する。


どちらかというと、ブラック系(アメリカ)が入ってくる。フロントマンはヒゲにも変身する。少年"風"やバッドボーイ、伊達男の声から、タバコを吸ったようなリキの入った声と、語尾の急上昇するポップな声に変わる。

「スウィート・シスター」(ヒゲ前)だけ、ちょっと伴奏がアラビア風アコースティック・ギターになる。


「フラッシュ・ゴードン」は宇宙的、多国籍的になる。映画もスター・ウォーズに対抗したような世界観。一部アラビア風と言えばアラビア風かも。衣装とかも。


残りのアルバム、

ホットスペース、ワークス、ソロ

あたりも、あまり際立ってアラビア風はない。

ポップ系の、カテゴリーなしに移っていく。


そして、まず一つ目の疑惑に移る。

12作目、カインド・オブ、マジックだ。


カインド・オブ・マジック

ディズニー×クイーン第一回のメインビジュアルで示したように、そして第二回の解説の通り、

この12作目のアルバム「カインド・オブ・マジック」の歌詞カードの

中にジーニーのようなキャラクターがランプから魔法のように現れるイラストが描かれる。

ヒゲはないし、ターバンはしてるが、似てないどころの騒ぎではない。

ジャケットからして、メンバー4人がイラスト化し、青い肌を持つ。

イラストはロジャー・チアソンさん。

ディズニーで1996年のノートルダムの鐘の判事フロロー(悪役ビラン)1997年のヘラクレスのハデス(ビラン)を担当するイラストレーターのよう。アメリカ人なのか。

これは何かある。


先に進む。

ちなみに楽曲にアラビア風はとくにない。

そもそも映画「ハイランダー」のサントラが多い。ファンタジー路線。


フレディはマジック・ツアー(クイーンのラスト・ツアー。1986年)のあとは一年のお休みをもらう。

二作目のソロ・アルバムを作ろうとしたら、

オペラ・ディーバのモンセラート・ガバリェからまさかの返答があり、バルセロナ・オリンピックのテーマ曲を作ることに。

アルバムまで作ることになるので、フレディはソロをあきらめたようだ。

もうこの頃、

1987年の4月ごろからあの病、ハワード・アッシュマンも苦しむ病のウイルスが検出してしまったという。


しかし、憧れの人のわがまま(!?、だって事情知らない)に振り回されて、自分の集大成はあきらめたのか。そんな体力はもうない。

作曲家兼ミュージカル監督のようなマイク・モランと、2作目ソロの一作目にしようとした、「グレート・プリテンダー」のカバーでたしか共作した。

もともとボスのデイブ・クラークというイギリスの有名人のミュージカル「タイム」でフレディが2曲書き、モランもこのミュージカルを手がけていて、その縁で出会った。


そして、オペラ・アルバム「バルセロナ」(1988)用に8曲作るために力を合わせた。

作詞家のティム・ライスさんも2曲参加。ミュージカル風になる。

ティムさんは、何度も書いてきたが、ハワード・アッシュマンに引き継いで、アラジン(1992)のホール・ニュー・ワールドの作詞をした人だ。


ここら辺から繋がってくる。


ちょっと長いので、続きは次回。

お読みいただき、ありがとうございます。

お楽しみに!


追記、次回はこちら









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