2016.06.13 恐れとともに空を見上げて

145. まだ見ぬ世界を見るために
146. ニーズを満たす
147. 国旗に引っかかったリュックサック

145. まだ見ぬ世界を見るために

書斎の机の前に座りパソコンを開きキーボードに手を伸ばそうとしたが、まだ部屋の中に外の空気を入れていないことに気づき、寝室からベランダに続く扉を開けた。カタン、と、隣の家の1階の屋根の上に広がる木の枝のあたりで音がした。猫が木から飛び降りたのかと思ったが猫の姿は見えない。よく見ると枝の下には丸い実がいくつも転がっている。先ほどの音は枝から実が落ちた音だった。今日もまた、「そこにしかない一瞬一瞬がある」ということへの気づきから一日が始まった。

先ほどの、実がなっている木があるのとは逆側の隣、保育所の庭の木には二羽の鳩がとまって木の実をついばんでいる。時折、大きく両側の羽を広げ、ちょうど木の輪郭をなぞるような、木の葉を抱きかかえるような体勢になる。ああしてバランスをとっているのだろうか。自分がやったことがないことや、ものごととものごとのつながりが分からないことには意味が見出せない。鳩と木の関係、物理学的なバランス、鳩の体の構造、そして鳩の無意識や論理的・合理的には説明できない行動の存在。「分からない」ことの後ろには、まだ自分の認識していない様々な構造や人知を超えた世界が広がっているのだろう。

今朝はヨガをしながら、1日の時間の使い方というテーマが頭を回っていた。食の取り組みとともに、1日の中で集中できる時間は随分と(体感覚的には長さで言うとそれまでの倍くらいに、思考の深さはもっとかもしれない)変わったのだが、その分、先週末から、一つのことをやっていたら一日が終わるということが続いている。締め切りに追われることのほとんどない今の暮らしの中で、先延ばしになりがちなことに集中して取り組めるというのは悪いことではない。しかし、やっていること自体を客観的に振り返ったり、窓の外の景色を見たりすることなく時間が過ぎてしまったりするのであれば、それはワーカホリックだった頃の暮らしと変わらなくなってしまう。そこにあまり質的な変化はなく、何よりも今日という日の美しさを感じないままあっという間に季節を飛び越してしまうことになる。具体的には、睡眠の質(=起きている時間の質なのだが)や、様々なバランスを考えると、18時には夕食を摂り、それ以降は日記の執筆や、読書などの時間に当てたい。1日にたくさんのことをすると振り返りをする時間とエネルギーがなくなってしまうが、それよりも、何かをする量を多少減らしても、振り返りをする時間をしっかり持ちたいと思う。そして頭の中でその日一日の行動や考え、気づき、インプットなどが整理され、構造化される時間にしていきたい。以前読んだ本を読み返してみるのはいいだろう。繰り返し同じ本を読むと、自分の興味関心や意識の変化に気づくことになる。そして、かつては読み取ることのできなかった「鳩が木の上で羽を広げることの意味やメカニズム」のようなもの分かるようになっている自分に気づくかもしれない。

もう一つ、ヨガの終わりに手を合わせながら浮かんできているのは今自分が抱いている「恐れ」についてだった。「これまで経験してきたことを統合し、自分なりの視点から再構成していく中で見えてきた世界観を人に伝える」という過程において私は「分かってもらえないかもしれない」と考えることがあるのだとここ2,3日で気づいた。もしくは「これは誰かの役に立つのだろうか?」という問いが湧く。人として社会や共同体とのつながりを持ち続けたいという想いとともに、「受け入れられないかもしれない」むしろ「批判されるかもしれない」ということを考えているのだと思う。5年ほどまえ、会社員をやめて個人で活動をしていく中で、私は、自然と何かを表現することが増えていった。その中には自分を売り込むコマーシャル的なものもあったけれど、感じていることをそのまま表現することも多くあり自分の中では、感性を発揮できる機会でもあった。表現したものに何かを感じてメッセージをくれたり声をかけてくれる人もいたが(その時のご縁で今の仕事の一つは続いている)、そんな中、中高の同級生が、久しぶりに会ったときにふと口にした一言に私はいたく傷ついた。今思えば、それを「自分への否定」だと受け止めたのは私自身であって、また彼女は彼女で心の中で何かを感じただけだ。色々なことに悩み葛藤する彼女がきっとそこにいたのだと思う。私に発した一言は、彼女の心の中で「気づいてほしい」と言っている感情の小さな叫びだったのかもしれない。そんな彼女にとって、私が無邪気に自己表現をする様子は何か苦しい気持ちを呼び起こさせるものに映ったのかもしれない。今になると、自分の心の中で起きたことと、彼女の心の中で生まれたものをそれぞれに想像することができるが、当時の私にはそういう理解をすることができず、自分自身や自分の生き方が否定されたような感覚と、大切な人との繋がりを失ってしまった感覚に苦しさを覚えた。

今でも、自分自身が感じていることや見ている世界を率直に表現することは、誰かとの繋がりを失うことになるのではないかという恐れがある。これまではそれが「大切な人に理解をしてもらえなくなるかもしれない」「分かり合えなくなるかもしれない」という恐れなのだと思っていたが、こうして考えてみると、実際にあるのは「自分自身が大切な人の価値観を理解したり受け入れたりできなくなる」という恐れなのだろう。相手が自分に対して感じることがあるかもしれないけれど、それはそれであって、私が何か苦しさを感じるとしたら、それはやはり私の中で生まれるものに起因するものなのだ。これまで、私は自分にとって大切なものを見つけ表現してくる中で分断や離別を経験してきているのだろう。だからそれがまた起こることを恐れている。

しかし、これからもそうとは限らない。たとえ、表面的な考えや感情、それにいたった背景、その根底にある価値観や信条、文化的・慣習的な違いがあったとしても、その人のものがたりがそこにあるということを受け取ることはできるだろう。そのプロセスこそが人と心を交わす体験であって、何か静的な関係性ではなく、動的な関係をただただ積み重ねていけばいいのではないか。

自分が、かつて感じた、他者や社会的な成功に対する「憧れ」から自分らしさを表現するのはなく、今は、もっと深いところで自分自身の世界や価値観をつくっていこうとしていることを感じる。それは商業的にもてはやされていたインスタントな「ブランディング」などと言うものではなく、自分自身の深いところと向き合い、恐れとも向き合っていくプロセスなのだ。まさに、これまで生きてきた世界の殻を破ることでもある。焦らず一歩一歩、そのときそのとき感じることを深く味わっていきたい。2019.6.13 6:44 Den Haag

146. ニーズを満たす

隣の庭の木に付いた赤い実を、今日も鳩が体を傾け、首を伸ばしながら啄ばんでいる。今日は昨日に比べると取り組んだことの種類は多いが、やはり駆け足で常に次の予定に向かったような一日だった。しかしそんな中でも、昼間、「自分のニーズを満たすという選択」ができたことは一日の満足度を高めているように思う。

それは、12時半頃、予定より遅く始まった午前中のミーティングを終え、バナナにカカオとマカのブロックを混ぜて豆乳をかけたものを飲み、本日最終回を迎えるNVCの講座に向けて参考図書を読み直し始めたところだった。開いたページの文字の上を、視線が滑るように進んでしまう。文脈の裏にある世界を想像せずに言葉の意味だけをつまんで読もうとする状態になっていることに気づいた。かつて身に付けた、あらすじや概要を理解するだけの速読の癖が出るのは、脳が十分に働いていないサインである。脳、そして体が休息を必要としていることを受け取った。本を読んでいるうちにうたた寝をすることはよくあった。特に幅の広いソファで読書をしているときはすぐに体を横にすることもできるので、なんとなく体勢を変えていき、なんとなく寝てしまうのだ。今日も、放っておけばそのままうたた寝をすることは明らかだったし、そうすることもできた。しかし今日の私は今までとはほんの少しだけ違った。「あ、今私は休息を必要としているんだな。だったら今、潔くこのままソファに体をあずけて仮眠をしよう」と思った。

寝ていたのはおそらく10分ほどだったが、何かとても満たされた感じがした。なんとなく感じるに身を任せて「寝てしまった」というのではなく、自分自身のニーズを感じ、そのニーズを満たすことを選択したというそのプロセスによって、心と体がちゃんと繋がっている感じがしたのだ。睡眠や休息というのはとても基本的な欲求で、日々の中で結果としてそれを満たせているとは思う。しかし、感覚の奥にあるニーズを聞き取り、それを満たす行動をするというのは、まさに身体と対話をしているようだと思った。今までの私は、特にうたた寝のようなものに対して流れに任せていたり、少しの罪悪感を感じることがあった。それは読書に多くの時間を使う日や、のんびりと過ごす平日に対してもだ。今でも私は日本社会の中での「一般」から外れることや、ライフスタイルを大きく変えることに若干の罪悪感を覚えることがある。もうすっかりそこからはみ出ているというのに、そして私以外の誰もそんなことは気にしていないのに、心はまだ日本社会の持つ慣習による縛りを自らに作り出しているのだ。そんな中で、体のサインを元に自分に許可を出すというのは、自らの選択という人生を生きる大きな一歩であったように思う。それは決して「何でも思い通りに行く」と思うことではない。しかし、自分のニーズに沿って、自分自身や他者にリクエストをすることができるというのは、人との関係性や暮らし方、生き方に変化を起こしていくと思う。

いつもながら、日記というのは誰が書いているか分からない。書斎でパソコンに向かい、窓の外を見ていると、呼吸をするように自然と言葉が生まれてきているのだ。

今朝は打ち合わせの前に最近の日記の編集作業を始めたが、それが意外と簡単なことではないということに始めてすぐに気がついた。そして今までの6回の編集と呼んでいた作業は、ただ体裁を整えただけだったのだということにも気づいた。誤字脱字だけではない、それを読み手として読むと、文章の流れがよく分からないところ、言葉の意味が分からないことも多々ある。例えば、この「」はどんな目的でつけているのだろうと考えると、言いたいことはこういうことではないぞと思ったりもする。同時に、「今」の私が持っている考えではなく、あくまで日記を書いた「そのとき」の私が持っている考えを読み解こうとすると、その裏にあるそのときの自分の持つ物語が見えてきたりする。なかなか簡単には終わらないが、人の生きる時間を想像する興味深い活動だと感じる。今もまだ、PDFにまとめるための直近の日記の編集を終えられていないが、速さを優先するのではなく、やはり他者の日記を読むときと同じように時間をとってじっくりと読んでいこうと思う。2019.6.13 20:39 Den Haag

147. 国旗に引っかかったリュックサック

今日は20時にはシャワーを浴びてその後はパソコン作業はしないようにしようと思っていたけれどもう21時に近づこうとしている。中庭の上部には日が差し込み、緑色の鳥がその美しい羽を広げ、ふわりと向かいの木の頂上あたりに身を置いた。

18時前に買い物に行ったとき、通り沿いの家の前に、オランダの国旗が掲げてあった。ここ最近、週に2度くらいは通っている通りなのだが、前回通ったときはその国旗はなかったように思う。見ると、国旗の先にリュックサックが引っ掛けてある。誰かが落としていたものを、見つけやすいように国旗の先につけたのだろうか。それにしても、そもそもそのために国旗を出すというのも…。と思いながらその横を通り過ぎ、オーガニックスーパーで買い物をして別の通りから家に向かうと、やはりオランダ国旗の先にリュックサックが引っ掛けてある家が二軒あった。明日は何かの祝日だろうか。これまで祝日にオランダ国旗が掲げられていたことはあったが、その先にリュックが引っかかっているのは初めてだった。オランダは第二次世界大戦時にドイツに占領されていたことがあるので、独立記念日のようなものがあるとオランダ人の友人が言っていたことを思い出す。何かそういった、苦労の末に何かを勝ち取った象徴がリュックサックなのだろうか。そんなことを思いながら家まで帰り、調べてみると、オランダの風習で卒業試験に合格したとき行うもので、それまで使ってきたリュックサックを引っ掛けるということだということがわかった。その説明文を見ながら、涙が出そうになった。オランダの小学校には日本のように一斉に行う入学式というのがない。おのおのの誕生日に合わせて学校に通い始める。これまではその話を聞いて何だか随分あっさりしたものだなあと思っていたけれど、式典のようなものがなくてもその子どもや家族にとっては学校に通い始めること、卒業試験に合格すること、そしてその間に流れる時間はやはり特別なものなのだろう。ボロボロになったリュックサックの一つ一つに、小さな背中がだんだんと大きくなっていくその月日が刻みこまれているのだ。卒業試験に合格するということは、育った家を離れる日も近いということかもしれない。これまで共に過ごした仲間がいる場所とはまた違う場所に一歩踏み出すことになる。まさに、鳥が卵の殻を割って新しい世界に出るような、そんなときの象徴かもしれない。そう思うと、これからいっとき、国旗に引っかかったリュックサックを見るたびに胸が熱くなりそうだ。

人はいくつになっても、次のステージに進もうとしていくときというのがある。今いる場所から飛び立つのだと心に決め、助走をして地面を蹴る。飛び移る木をしっかりと見つめて羽を動かすもなかなか前に進まない。やっと足をつけたと思った枝がぐらりと揺れる。振り返ってももう、かつていた場所に自分の居場所はない。随分と心細い場所に来てしまったものだと思いながら、精一杯そこで新しい歌を歌おうとする。空に掲げたリュックサックは、懸命に生きてきた誇りであり、そこにあった時間に戻ることはできないという印でもある。

人は自分のつくり出した物語を生きている。それを幻想と呼ぶこともできるし夢と呼ばれることもある。その中で体験されることは決して楽しいことばかりではない。苦しいことの方が多いかもしれない。それでもそこに、感じる感情全てに、その人の大切にしたいものが込められているのだと思う。何を手にしても、何を成しても、人は等しくいつかその命を終える。そのときに、その全てでなくても、「いろいろあったからこそ、人生が美しいものだった」と言えるように。その人が生きる物語に、静かに耳を傾けていたいと思う。2019.6.13 21:15 Den Haa


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