217 終わりがけにやっと気づく、今日という一日のこと

217. 終わりがけにやっと気づく、今日という一日のこと

21時を過ぎて、今日は初めて書斎の机の前のバランスボールに座った。窓の外に見える中庭には、体を巻きつけている棚が見えないほどに生い茂り、四方に、中空にとさらに手を伸ばす蔓がさわわと風に揺れた。隣の保育所の庭まで葉っぱがはみ出している。日本だったら隣家との境目というのはデリケートな扱いをしているイメージがあるが、オランダの中庭はやはり、「みんなの庭」という前提なのだろう。このまま蔓が伸びてきて、この部屋の外側の壁をも包んでいくのではないかと思う。いつか蔓も枯れ、その中で私は老いているのだろうか。それも悪くない。しかし今年の初め、冬の時期には藤棚のようなものに絡まっていたのは、葉の茂っていない蔦のようなものだった。そこから芽が出て葉が出て蔓が伸び始めたのは3月を過ぎてからだったので、今茂っている葉っぱたちは次の冬を迎える頃には落ちていくのだろうか。自然というのは、思ったよりもずっと早くその姿を変えていっている。人間も皮膚は約28日、肝臓や腎臓でさえも約200日でその細胞は入れ替わっているし、原子・分子レベルでは毎日摂取するものと一体になり、離れ、絶えず入れ替わりが起こっているとも言える。中庭の景色と同様、自分自身も今日の生は今日にしかないものだと思うと、今日の自分をどれだけ味わっただろうか、どれだけ発揮しただろうか、この生があることにどれだけ感謝しただろうかと思う。

もう随分前のことのようにも感じるが、今朝は慌ただしく、前のめりに走り出すように一日が始まった。今日はオランダ時間の9時からコーチ仲間の開くクリーンランゲージの勉強会に参加する予定だった。昨晩は思ったよりは早く思考が落ち着き始めたが、それでも眠りに向かい始めたのが2時半すぎだったのではないかと思う。それでも外の明るさのためか、6時頃には一度目が覚めたが、やはり体に中途半場なだるさが残っており、いつもは閉めない寝室の窓全体にかかったカーテンを閉めてもう一度眠りに入った。そして予めセットしておいた目覚ましによって8時にまた目を覚ましたが、どうにも眠くて、また眠りに戻った。夢の中でも私はオンラインの勉強会に参加するという設定が登場した。しかし他の予定が被っており、気づいたら置き放したパソコンの画面が勉強会の画面に繋がってはいるのに自分は参加せず勉強会が終わってしまっていた。参加できなかったことにとても残念な気持ちになり、その後少し夢が続いたところで、ハタと意識が寝室に戻ってきた。スマートフォンで時間を確認すると8時45分。もともと今日は夜中のセッションの翌日ということもあって、音声のみでゆったりと参加しようと思っていたが、さすがに声もろくに出ず頭も全く働かないのはまずいと思い、バタバタとシャワーを浴びた。身支度をして、どうにか開始時刻前にパソコンの前にスタンバイすることはできたが、その間、手元に置く水を持ってくるのが精一杯だった。幸い少人数の会だったので、自分の状態を正直に伝えチェックインし、徐々にギアを上げていくことができたが、それでも無理矢理感はあった。自分が10の状態から50の力を出そうとするときは、その差の40ではなく、その倍以上の力がいるように思う。その結果、2時間の勉強会が終わった頃にはなんだかヘトヘトというか、気づきや学びに空腹やエネルギー不足が混濁した状態になっていた。

こうして書くと、自分の内的センサーが全く働かない状態になっていたことに気づく。そのあとのことははっきり時系列で思い出せない。いつも朝飲んでいるヘンプパウダーとカカオパウダーにはちみつとアマニ油を混ぜ水で溶いたドリンクを飲み、その1時間後くらいにりんごを食べたように思う。その後、バナナにカカオニブを加え、豆乳をかけて飲もう(食べよう)としたら豆乳を切らしていることに気づき、オーガニックスーパーに買い物に行くことにした。空に雲が広がり、気温が下がってきていたので「雨が降りそうだな」と思いながら外に出ると、家から数メートルも離れないうちに細かな雨粒が降りてきた。「降ってきたか」と思ったが、「家を出る前に降り始めていたら、出かけるのが億劫になっていただろうから、家を出てからでよかった」と思いながらスーパーのある商店街に向かった。幸い、雨は強くならず、散歩気分でスーパーまで行くことはできたが、よっぽど体内がカオスな状態だったのか、スーパーではいつも買っている葉物の野菜、りんご、バナナ、豆腐、豆乳に加えて、ナッツ類の入った硬めのクラッカーとビスケット、野菜でできたコロッケのようなもの(インド系?のベジタリアン食に入っているようなもの)までバスケットに入れていた。「これで数日天気が悪くても大丈夫だ」と思いながら帰っている途中で、サツマイモを買い忘れていたことに気づく。そして帰ってきて早速、葉物と豆腐をあたため、それにすりおろした生姜をかけ、コロッケのようなものもあたためて食べていった。まとめて結構な量を食べたが、意識があちこちを彷徨い目の前の食に向けられていなかったのだろう。コロッケのようなものを食べたこともあって胃はもたれているが食の満足感は感じられないという状態になってしまった。昨晩から、今読んでいる『SILENCE』や大好きな『making space』の著者であるティック・ナット・ハンの暮らすフランスのプラムビレッジというところに秋以降に短期間のリトリートに行こうかと考え日程などを調べはじめていたところだったが、そんなことを考え心が彷徨っていたら元も子もない。非日常の場所を求める前に、自分が日々為すこと、目の前のことに注意を向けることが大事なのだとこうして書きながら確認している。

それにしても、改めて心の状態と食の選択というのは直結しているように思う。心がざわついていると、食に対するセンサーも粗雑になる。そして食は、体となり、心の状態に大きく影響を与える。日々の中で心の速度より速いものを追いかけないといけない瞬間はあるが、例えばこうして日記を書くように、走り去ろうとする一日を捕まえてスピードをリセットすることが今の私には必要だ。それは日中、少し呼吸を整えたり瞑想をしたりする時間を持つということでもいいだろう。あれこれと急いでやりたいことがあると気が急くときほど、一息ついて、「それを為す自分」と「世界を感じるアンテナ」を整えたいと思う。

空は鴇浅葱(ときあさぎ)と呼ばれる朱がかった灰色が降りてきた。胃の中にはまだ、鼠が丸まっている。2019.7.14 Sun 0:03 Den Haag


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