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気根を育てる

ひとつまえの記事で、オソイハハヤイ、の活動についてお知らせをしてみたのですが、活動の根っこのエネルギー、みたいなものについて、ちょっと書いておきたいと思います。

久しぶりに、数々の断捨離に勝ち残り、今も手元にある相似象学会誌、を読んでいて、ああ、わたしが大事にしている世界観は基本的にここにあるんだよなあ、と思ったので、ちょっと引用させてもらって、補足していこうと思います。

カタカムナはなんだかとても流行ったようですが、どうも、わたしが大事にしたいエリアと関係ないところでもてはやされた感が強く、あのブームに私は一切かかわっておりません。

宇野さんの学会誌の好きなところは、アンスクーラーととてもスタンスが近く、あくまで、力学的に何も持たないひとたち、しかも、勘の良いひとたちに向けて書かれているというところ。そして、それぞれが、勘の良さを育てていくヒントにしたい、というコンセプトであるところです。

大きな木の茂った高い山に登れば、何か全身にふりそそぐ、目に見えぬモノを感じて快い、とすれば、それは何だらう?と思ふ。場所によって気分の悪くなるところ、元気が脱けてゆくように感じられるところがあるとすれば、それはどうしてかしら?男女の指先が触れたとき身内に流れ込むこのヒビキは?……こうした場合、直感の鋭い人なら、自分の感受したものから追究が出発し、それが次第に発展するのが自然で、直感に感じないものに関心がソレル暇はないであらう。
(略)
ところが、人間が生物進化的に体覚や直観力が劣化し、欲望が派生してくると、直感の鋭い人には考へつかぬような、飛び越えた観念に走ることになる。そのような観念の想像には、物理的根拠は無いし、なくても気にならぬのである。しかも一般人は、直感外にハミ出た神秘観を好み、また、近代人は、スナホな好奇心をソレて発達した、理智的な思想や学問の方を、直観知の表出よりも、高等なもののように尊重しがちである。しかし、物事の真相の把握は、何といっても、鋭い直観力に基くものでなければならぬ事を、古来の優れた思想家は揆を一つにして洞察し、実証して居る。
(略)
「形には見えない、象をこえたものを追究する」といふ「形而上学」の意味が、『カタチには見えないけれども、確かに実在するモノを直観によって探求する』といふ本来の態度を超えて、超能力の超実在の神仏を想定してしまふと、真の形而上学ではなくなるが、現代もなほ、そのやうな神秘宗教や形而上学が多く存在するのは、「自然科学がいかに進んでも、それだけでは片付かぬモノがタシカにある」といふ勘が人々にあるからである。
しかし科学では片付かぬものがあるといふ現実から、逆に追究して居るうちに、「こうあってほしい」「こうあるべきだ」といふ人間の願望や欲望が投影され、いつの間にか、人々の願望や欲望にかなふ属性を具へた神仏が存在することになってしまふ。つまり、人々のスナホな直感や庶民の勘で摑んだ実在の『アマ』の潜象の周りに、人間の願望や欲望の影像がくっつくのである。

相似象学会誌 第三号 124-127Pより抜粋

この相似象学会誌は、今もナワプラサードさんなどで購入できるけど、絶版になったままの号もある。人気なのは、カタカムナの暗号の読み解き、がなされている号のようだけど、学会誌のほとんどは、ただひたすら、この、直観が良いとはどういうことか、どうすれば勘が良い人が育つか、みたいな話しかほとんど書いてらっしゃらない。

私の親しい人の口癖が、「気根が無い人はどうにもならないからな」だった。これは、いくら真実があったところで、感性が無い=気の領域の根っこがもとから存在しない人には、言っても通じないし、永遠にわかりあえない、という苦い体験の上での結論であったように思う。

その「わかりあえない」ということへの絶望を通った上で今思う事は、少しでも、多くの人の心に、根っこを育てることができないだろうか?ということ。なにもかも、本質に立ち返れば全てほどけていく。

そのためにできることをやっていきたい。

Photo by Micah Hallahan on Unsplash

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