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洗う、哲学(1)

手洗いで洗濯をはじめて、2年半くらいになる。
ここに至るまでのあれこれを、ちょっとまとめておきたくなった。

前半は、あまり実用的でない話を中心に。

まだ息子が小さい頃、古いブログに
「料理しながら洗濯できますか」
というタイトルの記事を書いたことがあった。

洗濯機を使えばできるやん、と鼻で笑われそうだが、
わたしがいいたいのは、
洗剤液に手をつっこみ、
そのまま食材をさわったり、
洗い場を共有しながら料理できるか?という話なのである。

湿布薬や塗り薬が効かないと思っている人はいないよね?
だとしたら、
洗剤だけ、
都合よく、
皮膚から浸透しないなんてことは、ありえないわけで。

そういうこともあって、
料理と洗濯がシームレスであるということはとても重要ではないか、口に入れたり肌に触れても大丈夫なものでしっかり洗うということは、物凄く大事なのではないか?
ということは、前からずっとうっすらと思っていることなのでした。

洗う事を強く意識するようになった直接的なきっかけは、
新品の洋服を買ってきてそのまま着たら染料にかぶれたり、合成洗剤で洗った洋服を着ると肌がかゆくなったりはれあがったりしたためだ。
なので、
これを解決したいだけだったら、
洗剤に気を付けて洗濯機で洗う、でこの話は終了になるはずなのだ。

しかしわたしの場合、それでは終わらなかった。

引っ越した家で、洗濯機がおけなくなってしまったからだ。

ただしくは、洗濯機置き場がない家ではないのだけれど、そこに洗濯機をおいてしまうと風水的に場が乱れて、最悪わたしがぶっ倒れてやばいことになりそう、ということがわかったので、使えないと判断した。

引っ越してすぐ、その動線のまま、水回りを使っているととにかく家が殺気立ち、親子の喧嘩が絶えず、とにかく水を使用するとイライラする、ということが続き、これは配置がやばい、ということに気づいた。

引っ越す前にそういうことも調べて引っ越せよ、と思うかもしれない。
だが、人間、顕在意識における努力でどうにもできないこと、がたくさんある。それは、そこから学ばねばならないことがあるから、、

いくら「知っていて」も、実践において思い通りにならないことばかり。そこからスタート、なのである。

そういうことで、洗濯機置き場は一度も使わずに封鎖して、炭を敷き詰め、脱水専用機を買って、狭いキッチンで料理と手洗い洗濯をする日々がはじまった。

引っ越してきた当初は、フルタイムで外勤をしていたため、土日のうち半日は、洗濯をして一日が終わり、人生において洗濯が占める割合が異様に高い生活を続けてきた。

いろいろ働き方が変化する中、今回の仕事を決めるにおいて、週4勤務を選んだ理由は、自営のお仕事を本格的に始めていこう、というのももちろん視野にいれているけれど、この洗濯にかかる時間、が決め手になったというと、あたまおかしいんじゃないの、と思われそうである。

しかし!
いろいろな、他の生活条件をそのままに、利便性の良い家にひっこした場合、うちのエリアでは家賃が凄まじい金額になる。なので、こうするのがいちばん、無理がないのではないか、というわたしなりの結論だったりする、、、利便性が高い家に住んで、電車で数時間もかけて通勤、は耐えられない、、、

洗濯代行、なども調べてみたが、どうも法律の問題で、ナチュラルクリーニング的なものを事業にすることが不可能っぽい。なので、そういうわけにもいかない。自分で洗うしかないということになる。

洗濯マグちゃんのコインランドリーが近くにできたらいいのに、とずっと思っているが、郊外にしか今のところ店舗がないのである。

そういうわけで、過炭酸ソーダあるいはセスキと、クエン酸を使った手洗い洗濯をずーっとやってきた。

いつもいつも、
毎週、こんなに洗濯に時間をかけてなにやってるんだろう、
と思わない日はなかった。
だけど、汚れがほんとうに綺麗におちて、嫌な臭いが一切せず肌触りが良いお洋服に守られている感覚というものを常に感じる贅沢さを知った。

洗濯をしている間は、当然だが、他のことができない。
代わりに、頭の中と耳が暇なので、音楽を聴いたり、考え事をしたり、ということはできる。
一種の瞑想状態になる。

わたしは、何もせず座ってやる瞑想があまり好きではなく、
それはまるで、ジムで金を払って運動することの意味がわからないのと似ているからだ。
なので、いわゆる「立禅」のように、動きの中に心の静謐さやクリアさを伴うものが好きで実践的だ、と常々思っている。

手洗い洗濯はそれにうってつけなのだ。

とくに、パソコン仕事ばかりして、
あたまでっかちになりがちな生活をしているわたしには、
これはとても大事なリセット時間になった。

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