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日高さんへの恋文

いつしか隣にいるのが当たり前になってた。でもそうじゃなかったんだ。


はじめての出会いは吉祥寺を歩いていた中学生のときのこと。吉祥寺といえば「おしゃれな街」。男子学生がそこにいるのが場違いのような、そんな気後れを覚えてしまう場所。学ラン学生が来ていいところなのか。肩が狭くなる。目線が揺らぐ。目が一点で止まった。

「290円のラーメン……?」

無印良品やロフトが似合う空間にでかでかと掲げられた「290円」の看板。横に小さく「日高屋」の文字。おしゃれな場所なのに気にせず値段をアピールするその太さ。なんでそんなに自信を持っていられるんだろう。気になる。思わず足が向く。気づいたらのれんをくぐっていた。ラーメンを一つお願いします。

すぐにきた。食べやすいように短くそろえられた麺。魚介類のひかえめなうまみ。小ぶりだけど脂がのってたまらないチャーシュー。スープがしっかりしみ込んだ海苔。どこかなつかしくて優しいおいしさ。その上に、100円玉3枚でおつりがくるこの安さ。もっと日高さんを知りたい。気づいたら心を奪われていた。


3年後。なんと近所に日高さんが引っ越してきた。ラーメンは390円になっていたけど安定のおいしさ。家族で通うようになり、ますます日高さんが好きになっていった。

それからずっと、日高さんはいつもそばにいてくれた。休日の昼下がり。予備校時代の昼食では塩味が効いたチャーハンから元気をもらえた。初めて一人で入った飲食店もここだったっけ。大学に入学したときは近くにあった日高さんにあいさつ。場所は変わっても味は変わらないラーメンが緊張をほぐしてくれた。あとは社会人になったばかりの飲み会のシメ。飲み会の食事が少なかったがっかり感は、日高屋のちぢれ麵とともに胃に消えていった。


そばにいて当たり前の存在。それが日高屋。そう思ってた。

2020年12月。当たり前のように隣にいた日高屋が、閉店した。

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心の準備をする間もなかった。突然の別れ。日高さんは遠くに行ってしまった。ガラスに残る「いらっしゃいませ」の文字。でもドアは二度と開かない。

「近くに一番館と福しんがあるから大丈夫よ」

そうじゃない。僕が食べたいのはあの日高さんの優しいラーメン。なぜか富士急の割引券とセットになってる大盛り無料券を渡してくれるあの瞬間がどれだけ幸せだったのか。あのころの僕は気づいてなかったんだ。

看板の空白を見るたびに心のすき間が広がる。味気ない日々が始まった。


あれから4か月。冷やし中華のように寒い日々が終わり、開店後の厨房のように温度がだんだん上がってきた。気づいたら閉店した商店街をさけて歩くようになっていた。代わりに歩くのは高架下。今日もうつむき電車の音をBGMに足を進める。ふと気配を感じた。なつかしい感覚。なんだろう。顔を上げる。

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日高さんが、そこにいた。

イメチェンした日高さんはちょっとおしゃれで、ちょっとスリムになっていた。でも見覚えのある陳列棚に誇らしげな看板。間違いない、帰ってきてくれたんだ!

抱きつきたい衝動をこらえ、心の中で話しかける。帰ってきてくれて本当にありがとう。そばにいるのが当たり前だとか思っててごめん。これからは近くにいる当たり前を、麵と一緒に噛みしめて生きていくよ。また味玉半額の割引券を持っていくね。


日高さんは当たり前の大切さを教えてくれた。今度また行ってラーメンを食べたい。そしていつもの魚介スープを飲みながら言うんだ。一緒にいてくれてありがとう、と。

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