依存先

(同性愛の内容があります。苦手な方は注意)

昔、「自立とは依存先を増やすこと」と書いてあった。

1人に依存することはその依存先が無くなったら自分を見失うが、複数の依存先があればどれかひとつが無くなってもやっていける。

たしかに、と思った。

私は昔から自我が強いくせに自信がなくて、誰かに依存してしまうような生活だった。

幼い頃はぬいぐるみ、中学生になったら推しと友人、今は音楽。

ぬいぐるみ、推し、友人、音楽。

それらがいないと自己が確立出来なくて、アイデンティティを失うような気持ちで虚しさでいっぱいになる程。

ぬいぐるみは「私の一番のお気に入り」と友達に豪語してそれらに纏わる話をしたおかげか、「アリエルのぬいぐるみのあやちゃん」という印象になった。

「○○オタクのアヤちゃん」「邦ロックのアヤちゃん」

自分の印象は、依存先になった。

自分の表面を飾るのは自分ではなく依存先になってしまって。

なにかに依存しないと私が何者でもなくなる気がして、依存せずにはいられない状態。

2ヶ月前に別れた恋人への依存は、人生で1番大きかったと言っても過言ではないだろう。


付き合った彼女は、年上だった。

同性同士だし、長女だった私にとって甘えられる存在というのはあまりにも大きかった。

身長が高くて、大人びた性格をしているとよく言われる私は誰かに「甘えられる」側で。

妹が居るから、面倒見も良いと褒められることも多く「お姉ちゃんみたい」と友人に言われた。

実は甘えてみたい願望があったことになんとなく気づいていたが、「褒められる私」を失う気がして誰かに言ったことはなかった。

そんな時に現れたのが、彼女だった。

初めて私に「おいで」と優しく腕を広げてくれて、私より小さな身体なのに大きな愛で包み込んでくれた。

全身がふわふわと優しく包まれて、寒い夜に心地よい温もりを感じたのを覚えている。

人生で初めての、「人に甘える」経験。

甘えていいよ、重いのが好き、沢山頼ってね。

そう言われた言葉にきっと依存してしまっていた。

別れを切り出されたら「別れたくない」と夜中まで泣いて。

人生の最たる何かを失ったような感覚に寒気がして、体調不良を引き起こすまで引き摺りまくり。

そんななよなよした、面倒くさい乙女心を抱えた私に友達はこう言った。

「それはさ、思い出に依存してるだけだよ。」

はっとした。

例えばホストに狂う女の子の場合の依存先はきっとホストのキャストさんがくれる愛。

パパ活に勤しむ女の子はきっとお金やブランド物への依存。

じゃあ私の依存は?

私は、「あの時楽しかった思い出」から離れられないでいるのだ。

彼女とお金の関係があった訳でもなく、拗れた身体の関係もなく、婚約を誓った関係でもなかった私。

人生で初めての「甘える」という心地良さに依存していただけだった。

甘くて、柔らかくて、優しかったあの腕の中に戻りたいだけだった。

それは、多分彼女じゃなくてもよかった。

気付いてしまって、涙が溢れて。

きっとその涙は悲しかった思い出ではなく、私の中でなぜか「あの時間を無駄に過ごした」意識が生まれてしまった。

まだ好きなのかな。


これからいい人見つかるよ、なんて言われた時に

「私は元カノじゃないと嫌だ」

と毎回思っていた。

でもその意味はきっと、

「私は"甘えられる存在の"元カノじゃなきゃ嫌だ」

と一緒だ。

言い換えれば、

「甘えられる存在なら元カノじゃなくても良い」

になる。

誰でも良い訳では無いんだけどな。


こんなことを書いていたらやっぱり、夜のベンチで手を繋いだクリスマス3日前を思い出すので辞めておく。

恋愛対象が限りなく女に寄っている女の私は、恋に悩みし女子高校生だ。

同時に、4日後にテストを控えた限界学生でもあるが。

北香那さん、応援ください。

嘘です。

note1スキ、頂きました。

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