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「ちゃんと呼吸をして生きたい」 -『裸足になって』

内戦の傷跡が残る、アルジェリア。これは、そこで生きる女性たちの物語。声と夢を奪われた主人公のフーリアが、踊ることを通して再生していく物語。

この作品のすごいところは、簡単に物事を完結させないところだ。内戦の影が蔓延るアルジェリアで生きる。簡単に解決しない物語。日常を生きるということ。傷を抱えて生きていくということ。

フーリアが施設で出会ったろう者の女性たち。
彼女たちはそれぞれに異なるストーリーがあって、それぞれ異なる傷を抱えて生きていた。

年長の女性が、豪雨の中川に入り、そこにある銅像に彼女の持つネックレスをかけようと必死になっている。彼女は戻ってきた時、「これでよかった」という表情をしていて、フーリアを支えながら川を出る。それによって何かが変わるわけではない。彼女にとって、それはどんな意味を持つのだろう。傷と共に生きていく中で、彼女は自分なりに必死に事実を受け止め生きようとしていた。笑顔で溢れてもいる彼女に、消えることのない傷があり、それと共に生きていく瞬間を描いていた。傷と共に生きていくこと。それを垣間見る。
それでも、彼女たちは常に泣いているわけでも、屈しているわけでもない。日常は笑顔に溢れていて、みんなでご飯を食べて、泳いで、ダンスをする。それが彼女たちにとって生きていくということ、生き延びるということだった。お互いに影響を与え合って、共に日常を生き抜いていく姿は希望を感じるものだった。

「ちゃんと呼吸をして生きたい」
フーリアの親友は、「この国では息ができない、ちゃんと生きているって感じたい」と何度も言う。
彼女にとっての「生きる」こと。それはきっと1人1人異なることだ。彼女にとっては、危険を省みず、夜の海をゴムボートで渡るという決断をすることだった。それが「ちゃんと呼吸をして生きる」ことだった。外の世界へ行きたい、夢を追いかけて生きたい、という思い。そうやって生きていくことが、この国では命の危険を冒すことに等しい。自分の命を危険に晒してまで生きるためにしなければならない決断があり、そんな社会であることが、私の心をずっと揺さぶり続けている。フーリアは、彼女を止めることはきっとできなかったと思う。彼女のした決断は、彼女にとって生きるということだった。だからこそ、その決断をするために命をかけなければならない社会を変えなければならない。

そして、表現すること、踊ること。フーリアにとって、踊るということは自身を表現することだった。怒りも、悲しみも、喜びも、全て。それがとてもしなやかに、丁寧に描かれていた。

フーリアが被害にあった事件も、解決されないまま映画は終わりを迎える。弁護士も警察も動かず、加害者が自由に生きていて、フーリアたちの活動も脅かされる生活。そんな中、フーリアはどんなに怖くても、傷ついても、上手くいかなくても、決して声を上げ続けることを諦めない。そんな彼女の姿勢は一貫していて、強さと勇敢さを身いっぱいに表現していた。その強さは彼女の弱さと相容れないわけではなく、強さと弱さが共にしなやかに存在している、そんなことも感じさせる描き方。

これから彼女たちがどうやって生きていくのかは分からない。これがフィクションだったとしても、遠い土地に生きている彼女たち、その物語や日常が、私の中に染み込んでいき、もう人ごとだとは決して思うことができない。この社会を変えていくために私には何ができるか。声を上げ続けること。答えはないけれど、ずっと自分自身に問い続ける。

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