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実体感がない存在感

このエッセイは5月15日発売「言葉は身体は心は世界」に収録されています

「実体感がない存在感がある」という、禅問答みたいな言葉を言われたことがあった。私にはこの世のもの感が少ないらしい。ちゃんと生きてるんだけどなあ。

これまで色んな言葉を「わたし」として受けてきたけど、その総量と同じくらい「捉えどころがない」という言葉も何度も受けてきた。おそらく定義をしてきた人たちも、ふわふわとした私のことをなんとか捉えたい欲求に駆られていたのだろう。



よく、私は今この身体じゃなくてもどこかに存在できるかもしれないなと思うことがある。木々が生い茂っている林や森、湖や川の近くで身体を忘れて空間そのものになりそうな時、動物と目が合ってあちらが何かを言いたげに近寄ってきた時。昔からひどく落ち込むことがあると「この身体からなくなりたい」と思ってしまう。でも希死念慮とはちょっと違う。他人の感情を自分のもののように感じて身体ごと反応したり、囲まれる物理に自分を見出しちゃう癖とひとつながりの感覚。自分が今考えてるものも発してる言葉も全部どこかから流れて自分を通過してるだけの気もする。

直近の数日間、昨日やってたことすらパッと思い出せない忘れっぽさは、いくつかの夢を見てる間にいろんなところに行っちゃってるからなのかもしれない。どっちかの世界を現実として生きていたら他方は必然的に夢になる。夢みたいに不思議なことがしょっちゅう起きるし、予知夢もたくさん見てしまうから、全部地続きの現実なのかもしれない。

身体を通して受け取る質感、意識と無意識が分化される前の混沌、鬱蒼と絡み合うものそのままでいられたら楽だろうなと思う。複雑で説明しようがない、ただそこにあるだけの現実を言葉や方程式、理論として理解した気になった途端、何かとても大事なことが指の隙間から抜け漏れてしまう。人間も世界中の有機物も無機物も、みんな実体を剥いだところで結局つながってるから、時間や空間で意味や形が変わってしまうものは足枷になるように思える時もあるけど、結局形がなければ近さや遠さも感じないからやっぱり必要だ、という結論に落ちる。



2020年5月、入退院を繰り返していた母方の祖父が亡くなった。もうさいごかもしれないとの知らせを受けて、4月も末日、7ヶ月ぶりに横浜の病院にいる祖父に会いに行った。声をかけたら口が少し動いた。気のせいじゃないね、しっかり聞こえてるんだね、と父と言いながら、5分以内の面会はあっという間に終わった。

2日後の深夜、病院から血圧が低下していると呼び出しを受け家族全員で病院に向かった。すでに全国に緊急事態宣言が出て1ヶ月。それまでは病院側も渋々面会を受け入れ、面会者も一度に2名まで、互いの距離に気をつけるようセンシティブに注意する具合だったが、この時ばかりは祖母と私含む娘家族四人、息子とパートナーの計7人が病室のベッドのまわりに集まることをゆるしてくれた。おとうさん、大パパ、と声をそれぞれが口々に声をかけると、それまで全く動けなかった祖父がゆっくりと肘から上を宙にあげた。思わず「おお」と全員が驚いた。家族の声がけのエネルギーが腕に宿ったのかもしれない。さよならのために絞り出しうる全ての力がそこに込められていた。何度か心拍が低下しては増えを繰り返しながら、ありがとうとおつかれさまを静かに浴びながら、祖父の痩せ細った首の皮膚にあらわれていた脈打ちが穏やかになくなっていった。苦しみから遠くて、静かだった。初めて目の前で命が消える緩やかなグラデーションを目撃した時間だった。

翌朝、東京の自宅に喪服や小物を取りに戻ると、アパートの向かいの家の前の生垣には、紅、濃紫、薄紫、ピンクとありったけのツツジがはちきれそうに並び、そのまた斜め向かいには黄色い花々が咲いていた。こんなに植物のにおいが濃く感じられる5月なんてあったかしら。人も車通りも少なくなったからなのか。初夏の日差しがふわっと入り込む木造の一室でタンスから取り出した礼服とストッキングはとても重く感じられた。

「この時期に亡くなる人って、植物が命持っていってるって聞いたことがある。質量保存の法則」

祖父が亡くなる1週間前、偶然そんなメッセージをくれた友人がいた。実はおじいちゃん亡くなってさ、あなたの言った通り多分今咲いてる花々に持ってかれてるね、と連絡をする。花を経由して天国に行くなんて、なんだかいい。きれいな天国への旅を想像して弔いたかった。

私は引っ越すたびに、家に小さなクモが現れる。大学時代に初めて一人暮らしをして以来、何度引っ越しても春になると必ず現れ、しかもずっと同じクモなんじゃないかと思うくらいサイズも飛び跳ね方も一緒なのだ。そのことを母に言ったら、高校生の頃亡くなった父方の祖母が会いに来てるんじゃない、と言われた。だからいつの間にか現れているちっちゃな同居グモを見るたび、殺すことはおろか追い出すこともできない。でもなんとなく祖父がクモになる気はしなかった。サーモンピンクのセーターが似合う色白の人だったので、ツツジになるほうがしっくり来た。



ある時ドイツ人の友人が、土葬より海への散骨を選びたいという話をしてくれた。「海に散骨すると亡くなった人は流れて離れてしまうと、言う人がいるけど、海水は地球上に形を変えて循環していくから、どこにでも存在できるんだ」彼は父を早くに亡くしやはり散骨をしていたので、ドイツの墓場に行かなければ会えない状況よりも、母国から離れ暮らす日本でも、思い出せば彼の存在を木々や風に、空間に感じることができてよかったと話す。火葬をする時点で、燃えて宙に存在できるかもしれないし、肉体が土に還っても質量保存の法則が効いてこの世に循環できるだろう。けど確かに、海にばら撒かれる方が身軽にどこへでも巡ることができそうなイメージがある。

祖父の一周忌法要のために帰省した際、お寺の庭にビャクシンの樹がそびえ立っていた。県の名古木に指定された立派なビャクシンの樹皮に、祖父の皮膚のシワや声のしわがれを見た気がした。告別式といい今回といい、雨の予報がとことん覆された。晴れ男は亡くなってからも力を発揮するみたいだ。



実家に帰って、居間に飾られていた家族写真を眺めていた。15年ほど前、亡くなる2週間前に撮られた父方の祖母は、80を過ぎた笑顔にも年齢を感じさせない愛らしい人だった。大正生まれの祖母は金沢の女学生一美人だと評判だったらしい。数ヶ月前、生まれて初めて父方のルーツである金沢に行ったら祖母やその妹、兄とそっくりの、眉間と口元に色気のある顔立ちをした年配の人たちがたくさん街を歩いていた。私が身内を街ゆく人に投影してるだけだったとしても、みんな薄い血の繋がりを感じてしまうほど。みんな正月に連絡を取る縁になれた可能性だってあるかもしれない、なんて妄想をしたら街を歩いているだけで温かい気持ちになった。

祖母の写真の横に飾られたモノクロ写真の祖母の旦那さんは、生きてる間に私の祖父になっていない。父が小学生の頃に交通事故で亡くなっているからだ。まだ40代前半くらいだろうか、経営者らしく端正にスーツ姿を決めまっすぐこちらを見つめ、韓国人俳優のように美しくてずっと見ていられる。父の父の顔を私はこの写真1枚でしか知らない。ずっと知ってる写真なのに、この時久しぶりに見て声が出てしまった。数ヶ月前に会った人が生まれ変わりのようにそっくりだったから。その人に初めて会った瞬間の妙な既視感に納得した。父方の顔の系統も、最近出会ったその人も、よくある顔立ちではあるのだけど。だからただの思い過ごしではないかと、二人の写真を友人に見せて確認したら、鳥肌が立ったと驚きつつ一息おいて言った。

「でも、因果ってあるようでどこにもないんだよね。不思議もただそこにあるだけ。でもまあこれはすごいよ。おじいさん、会いにきてるね」

この一枚の写真以外で、父の父にはもっと色んな表情があってそっちの方が本来の顔だったのかもしれない。父の父の生き写しのような、最近出会ったその人の顔と縁に、理屈のつながりがあるかは分からない。あると思えばあることになるのだろう。あることにすれば、肉体とそこに宿るもの、時間や空間と常に交錯して今に存在しているのなら、私は父の父に出会っている。



肉体を持つ私たちは「今ここ」にしか存在できないけれど、肉体がなくなればいつでもどこにでも存在できる。でももしかすると、肉体を持つ私でさえも、今目の前に咲く花であったかもしれないし、目の前の他者であれたのかもしれない。人の生死を思うたびに、あながち自分以外の存在に共鳴しやすい自分の思い込みでもない気がする。私と他者も、生と死も、喜怒哀楽も、宇宙の万物は、現実の質感は、グラデーションとして生まれては消えを繰り返して交錯して、瞬間瞬間に絡み合って存在している。

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