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NY 旅する意味を再確認

ずっと昔に住んでいたNYに久々に訪れた。遠く離れた異国への旅も久々。 今回の旅はいろいろ再確認と発見があってものすごく重要なものになった。

結論からいうと、

・私は旅しないと生きてられん

・今の生活と環境のすばらしさを噛みしめた

ということを実感したのだった。

何年も何年も何年も、ずーっと旅をしたかった街ニューヨーク。

私が人生はじめて海外旅行、しかも一人旅に挑戦したのが19年前。そして15年前に1年だけ住んでいて、その数年後に遊びに行ったっきり。

15年前のニューヨークで私は、人生はじめて恋人ができ、スカートを履いたり化粧をしてみたり、英語を習得したりとはじめてづくし。

そこから人生がようやく始まったようなもの。それくらい私の人生を変えた街。

それからなぜかフランスに住んでフランス人と結婚して母親になったり、毎日平和な日々を送っているわけだけれども……。

どんなに平和で幸せでも、日常を繰り返しているとそのありがたみの手触りというか感覚が鈍ってくるもので、これは日本いよいがフランスに住んでいようと一緒なんだな。


時々、夜中一人で静かにA3サイズの真っ白い紙に向かって

私は自分が何をしたいのか? どうありたいのか? どう生活していきたいのか?

なんかについて、書き吐き出しては探ることがある。

それだって、日常が繰り返される環境にいると自分の中からなかなかまっすぐ出てこない。


そんなことが続いていて、ここ何年もぼんやりと

ああ、楽しく生きたNYにまた行ってあの空間に身を置きたい。

なんて思ってしまったのだった。

現実逃避。刺激。

NYに行けば、今の生活にないものが得られる感じられる。その思いが積もり積もって意地でも今年中に行くと決めてついにその時がやってきた。

とはいっても、2019年39歳の誕生日を目前にした私は、一人で生きているわけじゃない。子供もパートナーもいて一人でふらっとNYに旅立てるわけもない。

子連れ旦那さん連れNY。

20歳と25歳の時とはまた違った滞在になるのは明らかだけれど、一人旅じゃない重装備の状況でもなんでもいいからNYに行きたかった。

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NYにやってきた。久々のビッグアップル。貧乏でケチなパリジャンが住むパリとは真逆にあるような場所。

グレーでドライ。夜の路上の影で、若い黒人のホームレスが腕立て伏せしてる横を、昼間バリバリ働いているようなキャリア・ウーマンがスポーツウェアでキメて走ってる。その路上はゴミの山で生臭い。ドル札の苦いつんとした匂いとサバイバルする生臭い人間の匂い。リアルな生と、嘘っぽい笑顔が見え隠れ。

ビルがそびえ立ちすぎて空が見えない、息つく余裕がないほどびっちり窮屈なブロック通り。レストランもチップもホテル代もありえないほど高くてじゃんじゃんカードからお金が引きずりだされる。

シャレたコーヒーショップでカフェ・オレ飲んだら、店員さんはテンパっていて味も全然美味しくない。スターバックスの方が安くて広くて綺麗でトイレにオムツ替え台もあったりするので、結局毎日スタバに寄る。パリだとスタバなんて数えるくらいしか行ったことないのに。

ああ、NY。

まるで昔の恋人に会ったら、変わっているところもあったけれど、案外変わっていなくって、自分の方がよっぽどドラマチックに変わっていたのかもしれない。

そこにはもう、私の生活やつながりは消え去っていて、異国人が住む異国の町という環境があった。

こういう実感や発見は、自分の足をその土地に着けて歩いてみないと見えないし実感できないのよな。本当に。

あー、だから旅って必要なんだな、と。

同じ環境でぐるぐる同じ生活していると見えづらくなる、気づきづらくなる。だからこうして飛行機に乗ってはるばるやって来て、ぐっと現在の自分の軸をずらしてみて、やっと自分が見えてくる。




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