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そんなこといってられないけれど、(大人の議論)

剛毛で癖っ毛なので梅雨は頭の膨張が止まりません。ヘアオイル手放せません、石田です。

(注: 最近起こった某芸能人の不倫のニュースを友達と見て、話して、ナイーブになってしまった石田が書いています。)

そんなこといってられないけれど、どうあがいても世界は回るし、季節は巡るし、おまけに嫌なニュースも駆け巡る。

不倫のニュース、偉い人が悪いことをしたときのニュース、悪くない人が虐げられてしまったときのニュース。

ニュースの数だけ、議論が生まれる。

これは当たり前のことなんだけど、なんだろう、こういう、人の善悪を判断するような議論が、私は苦手だ。(大人の議論と呼ぶことにする)どんなに仲が良い人とでも、マイナスなニュースについて大人な議論すると「ああ、そうだねえ…でも、…うん、そうだねえ…」と、沸きらない態度になってしまう。なんならちょっと落ち込む。よくわからんけど。

なんでだろうって自分なりに考えてみたんだけど、たぶん、私たち本当はなにもしらない(テレビで見て、聞いただけ)なのに、こんなに上から目線であーだこーだ言って、なんになるんだ、って思うからだと思う。そのトピックがなんであれ、議論によって人の善悪を自分たちが弄んでいるような気分になって、苦しい気持ちになるんだと思う。

あと、大人の議論をすることによって自分の普段ひとりで考えているような部分、わりと深めな部分を見せているような気分になって、なんとなく居心地が悪くなる。

話し相手を信用してないとかじゃない、

って書こうと思ってたけど、本当は信用してないのかもしれない。
大人議論って個人的に危うい議論だと思っているんだけど、それは「もしかしたら自分の考えを否定されるかもしれない、相手の言ってることにちょっぴり腹を立ててしまうかもしれない、喧嘩みたいな嫌な空気になったらどうしよう。」っていう子供じみた感情から生まれたものだと思ってる。

なんなら私の目の前で大人の議論をしてる人たちのことを身構えて観察しまう。喧嘩が始まりやしないかと、心配してしまう。(子供の頃、夫婦喧嘩が始まりそうなのってすごい敏感に察知できなかった?それに近いです。)

こうやって私は大人議論から逃げてきたのかもしれないなーーーと。思う。

でも、世の中の嫌なニュースは、他の人に知ってもらって、いろんな考えを交換して、喧嘩っぽくなって、もっとより良い世の中にしていこうねって手を繋ぐためにあるのかな。そんなうまくいくのかな。そう思う自分がいる。
ただ起こった、それを見つめるだけではダメなのかな。ダメなんだろうな。無言の圧のようなものがある気がして苦しい。議論しなければならない、そういう風潮がある気がして苦しい。そう思う自分がいる。

私はまだまだ子供過ぎて、大人の議論を出来そうにない。

わたしもサムネのツヤツヤのサーモンのように美しく佇む存在になりたいよ…

自分の心を覗くのって難しいね…日々精進です。

それでは、今日も徒然なるままに、

石田


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