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94歳の母が遺したもの

去る2月23日、東京の息子から突然の電話。母が亡くなったとの一報。
とるものもとりあえず上京。
いつものベッドに寝かされた母の亡骸を確認。苦しんだ様子のない穏やかな表情に、まずは胸をなでおろす。
その後こみ上げてきたものは、不思議なことに「悲しみ」とはちょっと別の感情だった。
この前後の経緯については、また詳しく触れたい。

かかりつけの医者への死亡診断書の依頼、最寄りの葬儀社への連絡は、息子がすでに手配してくれていた。
とりあえず、葬儀社と打ち合わせ。
このコロナ禍で、火葬場も密になることを避け、一日のスケジュールを抑えているようで、混み合っているという。キャンセルが出たとかで、ねじ込んでもらうかたちで、何とか27日に予約が取れた。
そういうわけで、27日に予定していた地元でのワークショップは中止せざるをえず、関係者と、お申し込みいただいた参加予定者にお詫びの連絡を入れる。
ちょうど当日の資料一式を用意し終えたところだったので、後日仕切り直しで開催したいと考えている。

さて、母の生き様、死に様を簡単に。
○享年94歳。
○最後まで自分の歯で食べていた。
○おむつをあてることもなく、最後まで自分でトイレ(ポータブルトイレを含む)で用を足し、風呂にも一人で入っていた。
○結局ただの一度もヘルパーさんを頼んだことがなく、後期高齢者介護制度のお世話にならなかった。
○耳はほとんど聞こえず、目も極めて見えづらくなっていたものの、最後まで意識は人一倍ハッキリしていて、ボケるということがいっさいなかった。
○驚異的な記憶力で、戦前のことも含め、「いつ誰がどこで何をした」という細部に至るまで詳しく憶えていた。
○仏壇へのお供え、日記、読書は毎日欠かすことがなかった。

発見されたとき、母はベッド横に置いてあるポータブルトイレにすわり、排便を済ませ、洗面器に嘔吐し、背もたれにもたれたままの姿勢で、やや天を仰ぎ、安堵の表情を浮かべるようにして、すでに冷たくなっていたという。
まるで、余分なもの(この世の垢?)を全部排出して、きれいさっぱり、身一つで旅立った、という印象だ。
死亡診断書では「心不全」。
絵に描いたような「大往生」である。

最近、「ジェロントロジー(老齢発達論)」なる言葉があるそうだ。
「人間、いくつになってもいかにしたら健康で幸福で前向きに生きられるか」ということを考える学問らしい。
母は、まさにこのテーゼの理想的な答えを、身をもって体現してくれた感がある。
「人間、その気になれば、生涯を通じて、このように生き、このように死んでいくことができる」というお手本のようなものだ。
実にあっぱれな生涯だった。

母は、昭和2年生まれ。
先の大戦を間に挟み、戦後は一貫して小学校の国語の教師を務め上げた。「職業婦人」の走りである。
私生活においては、姑からの35年にわたる執拗な「いじめ」にも、ひるむことなく真っ向から対峙し、その最期を見届け、大時代的で物わかりの悪い「○○家の一族」からも逃げることなく、最後まで丁寧につき合った。
まさに、激動の昭和史を生き貫いた功労者と言えるだろう。

思い返せば、母が何かに取り乱した、という記憶が私にはない。窮地に立たされれば立たされるほど毅然としていた、という印象なのだ。
自分が人にされて嫌だと思うことは、人にはいっさいしなかった。
深く限りない愛を、惜しげもなく人に振る舞った。その愛は、ときに厳しくもあり、やさしくもあった。
自分の過去をきちんと清算し、自分が旅立った後の未来に思いを馳せ、遺される者への配慮を、細部に目を凝らすようにして万端ぬかりなく準備した。

残された者にとって、つくづくよかったと思うことは、母がしっかり自分の言葉で思いを書き残してくれたことだ。
母の文章を味わえば、私たちはいつでも母の魂に触れることができる。もちろんそれは、血族にだけ宛てた内容ではない。

そこに描かれているものは、幼女が活き活きと体験した戦前の田舎の暮らしであり、多感なティーンエイジャーが巻き込まれた世界大戦の惨状であり、戦後の復興を支えた世代に見え隠れする「光と影」である。


息子である私にとって、母は最大の理解者・支援者だった。その分、要求することも大きかった。物書きとしては、ライバルでもあった。今後二度と現れることはないかもしれないそういう稀有な存在を、私は失ったわけだが、しかし幸か不幸か今の私には、「母を失った」という感覚があまりない。
母の日記の最後の数ページを見ても、いつもと変わらぬ「生きる意欲」に満ちていて、まさに日常の延長としての死を受け入れた様子がうかがえる。最後まで愛と意欲を貫き、この世に思い残すことがなかったからこそ、母の死は「喪失感なき別れ」という感覚を私にもたらしてくれたのだろう。私の姉も「死んだ気がしない」としみじみ語っていた。
失ったことの悲しみを差し引いてなお余りある母の存在の気配が、いつも私の傍らに寄り添っていて、背中をやさしく押してくれている。その感覚が、こうしている今も続いている。
「それでいい、お前はそれでいいのだ」とうなずくように・・・。

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