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《世界史》ナポレオンと女性たち

こんにちは。
Ayaです。
今日からナポレオンと女性たちについてまとめます。

デジレ・クラリー(1777〜1860)

デジレ・クラリーは1777年マルセイユで商人の娘として生まれます。姉ジュリーとはとても仲良く育ちました。
彼女がナポレオンと出会ったのは、1794年でした。翌年ナポレオンの兄ジョゼフが姉ジュリーと結婚したので、ナポレオンと婚約します。これはコルシカ島を追い出されたナポレオン兄弟が裕福な商人デジレ家の財産をあてにしたと言われています。とはいえ、この婚約は5ヶ月しか持ちませんでした。ナポレオンがパリで出会ったジョゼフィーヌと結婚したからです。婚約自体表だったものではありませんでしたが、さすがにナポレオンも気にしたらしく自身の部下との結婚をお膳立てしましたが、その部下が亡くなってしまいます。
ナポレオン家との付き合いは姉ジュリーを通して継続していました。因縁の相手ジョゼフィーヌのことは年寄り高級娼婦と陰口で叩いていたようですが、表立っては対立しませんでした。義兄ジョゼフの仲介で、1798年ナポレオンの部下ジャン=バチスト・ベルナドットと結婚します。翌年男子を出産し、オスカルと名付けられました。この名付け親はナポレオンと言われてきましたが、近年では兄ジョゼフではないかと説が変わっています。ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、デジレ夫妻も相応の扱いをうけますが、夫ベルナドットはナポレオンと一定の距離を保ち続けます。1810年夫ベルナドットがスウェーデン議会で王太子に推挙され、デジレは王太子妃となります。しかし、気候が厳しいスウェーデンの生活に馴染めず、すぐフランスに戻り、ナポレオンの没落まで過ごします。
1818年夫ベルナドットはスウェーデン国王に即位しますが、デジレは依然としてフランスで過ごしていたため離婚の噂がたちました。しかし、ベルナドットの説得のためか離婚を躊躇しスウェーデンに戻り、王妃として戴冠しました。ベルナドットの死後は王太后として慈善活動に精を出し、1860年オペラ観劇中に体調を崩して亡くなります。享年83歳。彼女の血は現在の王室まで受け継がれています。

デジレ・クラリー
息子はジョゼフィーヌの孫娘を妻に迎えている。

皇后ジョゼフィーヌ(1763〜1814)

ジョゼフィーヌは1763年フランスの植民地西インド諸島マルティーク島で生まれます。一応貴族の家庭でしたが、名ばかりで裕福とはいえない家系でした。16歳でボルアネ子爵と結婚して、一男一女(ウジェーヌとオルタンス)を出産しました。性格の不一致から夫婦生活が破綻、1793年離婚してしまいます。1年後離婚後の夫が革命政府に逮捕されるとその助命を求めて活動しますが、叶わず、彼女本人も逮捕されてしまいます。テルミドールのクーデターで釈放されると、獄中仲間のテレジアが主催する社交界に顔を出します。
そこではバラスという政治家の愛人となりますが、彼はジョゼフィーヌに飽きて、ナポレオンを紹介します。ジョゼフィーヌはナポレオンのコルシカ訛りや容姿が気に入りませんでしたが、財政的な問題があり、1796年に結婚しました。6歳年上の彼女に惚れていたナポレオンは、遠征先でも熱烈なラブレターを送り続けます。一方で彼女はそのラブレターを笑いものにしたり、自分好みの男性と浮気を繰り返していました。エジプト遠征中ナポレオンが浮気を知り、激怒して離婚しようとしたときから2人の関係は変わります。このときは継子たちの懇願で離婚を阻止しますが、ナポレオンはジョゼフィーヌ一途ではなくなります。反対にジョゼフィーヌは夫が英雄や皇帝になったことで周囲の目があり、浮気をしなくなりました。また彼を愛するようになっていきます。
皇后になったジョゼフィーヌでしたが、悩みがありました。ナポレオンとの間にこどもが生まれなかったのです。ナポレオンの後継者問題になるのは明らかでした。彼女はその対策として自分の娘をナポレオンの弟に嫁がせてこどもを生ませますが、生憎早世してしまいました。ついにナポレオンの愛人が妊娠すると離婚を切り出されます。しかし、年金や『皇后』の称号の使用などが認められ、ナポレオン本人とも友人として関係を続けます。時には後妻のマリー・ルイーズが嫉妬するほどだったと言われています。彼女はナポレオンの使っていた部屋ではペンひとつ動かすのを禁じ、保管し続けました。ナポレオンがエルバ島に流されている最中に娘オルタンスに看取られながら亡くなります。最期の言葉は『ボナパルト、ローマ王(ナポレオンと後妻の子)、エルバ島』でした。享年51歳。

ジョゼフィーヌ
実はジョゼフィーヌという名前もナポレオンが呼び始めたもの。名前と同じ薔薇を好み、ルドゥーテを重用したことからボタニカルアートの礎を築いた。


レカミエ夫人(1777〜1849)とスタール夫人(1776〜1817)

レカミエ夫人は1777年リヨンで生まれ、成長すると26歳年上の銀行家レカミエ氏と結婚します。しかし、この結婚はいわいる『白い結婚』で男女の関係はありませんでした。実はレカミエ氏は彼女の実父であり、彼女の母親が財産を継げるように画策したと言われています。天性の美貌とエスプリの効いた会話で錚々たる男性たちから求愛されましたが、見事に袖にしています。ナポレオンは皇帝になると愛人になるよう強要しますが、彼女は拒否し、夫の銀行は破産してしまいます。当時プロイセン王子と交際しており離婚を検討しましたが、夫から離婚を拒否され、別れてしまいます。その王子に贈ったのが、本稿トップ画です。
この失恋ののち、運命の相手シャトーブリアンと出会います。その後30年間連れ添いました。晩年には白内障で失明してしまいますが、1849年亡くなりました。享年72歳。

ダヴィッド『レカミエ夫人』
 ナポレオンがレカミエ夫人の気をひくためにダヴィッドに描かせたが、本人が気に入らず受け取りを拒否した。そのかわりにダヴィッドの弟子ジェラールに描かせたのが本稿トップ画である。

一方でナポレオンに全く相手にされなかった女性もいました。レカミエ夫人の友人スタール夫人です。スタール夫人は1776年大蔵大臣ネッケルの娘として生まれ、スイス大使と結婚していました。レカミエ夫人とは違い、美人とは言いかねる容姿でしたが、文豪ゲーテに賞賛される才能の持ち主でした。当時自分の愛人だったタレーランを推薦するなど政治的な才能もありました。ナポレオンが登場すると、彼のヒーロー性に惚れ、必死にアプローチしますが、突然押しかけるなど空回りして、ナポレオンは彼女から逃げ回っていました。ナポレオンが皇帝として即位すると、一転して否定にまわり、スイスに亡命しています。百日天下の際はナポレオンが和解へ動き、彼女の目指していた立憲君主制への理解を示したので、協力する動きを見せました。しかし、その動きも虚しく、ナポレオンがセント=ヘレナ島へ流されると生きる張り合いも失ったのか、1817年アヘン中毒による脳溢血で亡くなりました。享年51歳でした。

ヴィジェ=ルブラン『ミゼノ岬のコリエンヌに扮したスタール夫人』
革命で長い間亡命していたヴィジェ=ルブランによる作品。スタール夫人の子孫はブロイ首相など要人を輩出している。


愛人マリア・ヴァレフスカ(1786〜1817)

ジョゼフィーヌの浮気の後、ナポレオンも多くの女性と関係を持ちましたが、そのなかでも最も長く関係を持ち続けたのがマリア・ヴァレフスカです。
マリア・ヴァレフスカは1786年ポーランド貴族として生まれます。ポーランド自体が大国の犠牲となることの多い国で、父も幼くして亡くなったため、貧しい生活を送っていました。マリアの母は将来娘をヴァレフスキ伯と結婚させることを条件に糊口をしのいでいました。問題はヴァレフスキ伯との年齢差で、46歳も年上で、一番若い孫でもマリアより年上でした。マリアはショックを受けますが、16歳の時結婚します。翌年には男子を出産しているので、不幸そのものではなかったようですが、物足りない生活を送ります。
そんなとき、ナポレオンがポーランドにやってきます。ポーランドに独立を認めてくれたナポレオンに、愛国心の高いマリアは面会に訪れますが、ナポレオンが彼女に一目惚れしてしまいます。ポーランドとしてナポレオンは救国の恩人ですので、愛人になるように説得されますが、信仰心の篤いマリアは拒否。結局説得に負けていやいや関係を結びますが、次第にナポレオンを愛するようになります。ナポレオンも今までの愛人とは違う扱いをし、彼女を『ポーランド妻』と呼びました。
1809年マリアの妊娠が発覚し、ナポレオンは大喜びしますが、それは自身の生殖能力の証明としてであって、彼女への労りではありませんでした。不安になった彼女は『たとえあなたが私を愛さなくなっても、私はあなたを愛していることを忘れないで』と彫らせた指輪を渡しました。ナポレオンがマリー・ルイーズを妻に迎えると、こどもを連れてポーランドに帰ります。1812年には夫と正式に離婚し、翌年にはジョゼフィーヌに招かれます。離婚のきっかけとなったマリアですが、謙虚な彼女の人柄にジョゼフィーヌは好感をもったようでした。ジョゼフィーヌ以外のナポレオンの一族からも歓迎されましたが、ナポレオン自身はマリー・ルイーズにかかりぱなしで全く会いませんでした。
しかし、彼女のナポレオンへの愛は変わらず、エルバ島の流刑先まで息子を連れて訪れています。今回もマリー・ルイーズの手前、ナポレオンから断られてしまいます。セント=ヘレナ島へ流される際も同行を願いましたが、イギリス側から拒否されてしまいました。
ナポレオンと引き離されて生きる希望を失ったマリア。ナポレオンの親戚ドナルノ伯からプロポーズを受け、子どもたちの将来のため結婚します。ドナルノ伯の子どもを出産しますが、1817年亡くなります。享年31歳。ドナルノ伯はナポレオンへ彼女の訃報を伝えようとしましたが、悪天候のため届かなかったとされています。ナポレオンは彼女から贈られた指輪を亡くなる時までつけていました。

マリア・ヴァレフスカ
ポーランドでは救国のひととされ、切手にも採用されていた。


皇后マリー・ルイーズ(1791〜1847)

糟糠の妻ジョゼフィーヌと離婚し、名門王家との結婚を模索するナポレオン。いろんな王室に働きかけましたがみんな拒否され、結局オーストリア皇帝の娘マリー・ルイーズに決定します。
マリー・ルイーズは1791年神聖ローマ帝国皇帝のフランツ2世の皇女として誕生します。ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体させ、フランツ2世はオーストリア皇帝を名乗らざるおえなくなります。マリー・ルイーズにとってナポレオンは敵であり、友人には『彼と結婚させられるプリンセスが可哀想』と手紙で書いていました。そんな彼女にとって結婚の決定は想定の範囲外で、嘆き悲しみました。
1810年マリー・ルイーズはナポレオンと結婚します。マリー・ルイーズは捕囚のような結婚生活を想像していましたが、ナポレオンは必死に彼女の心を引き止めようとしたので、マリー・ルイーズは彼を愛し、円満な夫婦生活を送ります。マリー・ルイーズはあまりナポレオンの宮廷には馴染みませんでした。堅実な宮廷で育ってきたこと、大叔母マリー・アントワネットが処刑されたこともあり、常に緊張していたのでしょう。前妻のジョゼフィーヌはいろいろと問題点もありましたが、社交術に長けていて、内気なマリー・ルイーズにとってはそれも悩みでした。そんなことを知ってか知らずか、ナポレオンは前妻ジョゼフィーヌと仲良くしてもらおうとして、マリー・ルイーズの怒りを買います。ナポレオンは彼女の機嫌を取るために必死で、仕事すら疎かにしだします。1811年には待望の男子ナポレオン2世を出産し、ナポレオンは狂喜してすぐにローマ王の称号を与えます。一方マリー・ルイーズは子供の扱い方を知らずに、あまり可愛がりませんでした。
ナポレオンとの幸せな時間はすぐ終わってしまいます。1814年の1度目の退位の際には引き離されて、母子でウィーンに連れていかれます。まだ彼女はナポレオンを愛していて、すぐに息子を連れてエルバ島に向かうつもりでした。しかし、それはフランツ1世やメッテルニッヒにとって許せない行動でした。阻止するため、マリー・ルイーズ好みのナペイク伯を近づけ、関係を結ばせます。ナポレオンは愛人マリア・ヴァレフスカを追い出し、マリー・ルイーズが来るのを心待ちにしていましたが、愛人との情事に溺れた彼女にとってうるさい存在でしかありませんでした。2度目の退位の際は安堵すらしていました。ウィーン会議の結果、彼女にはパナマ島が与えられ、人質の息子を置いて、愛人と向かいます。父母から引き離された息子からの面会の願いでときどきウィーンに戻ってきてましたが、予定を変えたりすることはしょっちゅうでした。そんな母でも息子は愛し続けました。
1822年ナポレオンがなくなると、愛人ナペイク伯と正式に結婚します。その後ナポレオン存命中のこの愛人との隠し子の存在が明らかになり、さすがに息子もショックを受け、『母は父に値しない人物』と記しています。そんな彼女ですが、息子にとってかけがえのない母であり、1832年の息子の死を見届けます。
ナペイク伯の死後、1834年にパナマ統治で助けてくれた男性と結婚。1847年亡くなりました。享年56歳。

マリー・ルイーズ
ナポレオンは常にマリー・ルイーズを気にかけていたが、あっけなく捨てられてしまう。死後に心臓を送るように願ったが、拒否された。

ナポレオンと女性たち、まとめ終わりました。
ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚して、マリー・ルイーズを迎えた頃から栄華に翳りが見えてきます。ナポレオンとしては自身の血統を残したかったのでしょうが、組織が硬直化して、ナポレオンらしさがなくなってしまったのが原因でしょう。マリー・ルイーズが操を守ったとしても、淀殿のようになってしまったように感じます。ジョゼフィーヌは浮気症で贅沢好きの女性でしたが、二人の最期の言葉は長年連れ添ったからこそでしょう。
ナポレオンの元婚約者デジレ・クラリーはフランス皇后にはなり損ねましたが、スウェーデン王妃となり現在まで血統が受け継がれています。スタール夫人の子孫も活躍しており、レカミエ夫人は美人の代名詞として今でも人気なんだとか。
マリア・ヴァレフスカはもしナポレオンが流刑にならなかったら、死ぬまで連れ添い続けたでしょう。彼女を正妻に迎えていたら、もしかしたら帝国として継続したかもしれないですね。
ナポレオン関連はもう2話取り上げる予定です。今までのように直接ナポレオンに関わった人物ではないですが、もう少しお付き合いください。


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