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《美術史》レオナルド・ダ・ヴィンチ

こんにちは。
Ayaです。
今日から7回にわけて、ルネサンス期についてまとめたいと思います。
初回の今日は『万能人』レオナルド・ダ・ヴィンチについてです。

ルネサンスとは

14世紀に始まった古代ローマやギリシアの文化を復興しようという活動です。ルネサンスとは『再生』を意味します。イタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国に広がります。絵画の分野では遠近法の確立や、解剖学に基づいた人体の描写が特徴とされています。初期の代表的画家にはジョットやフラ・アンジェリコ、リッピ親子などが挙げらます。さらに成熟期にはいると、後世三大巨匠と呼ばれる、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが活躍しました。1527年のカール5世によるローマ略奪で勢いを失いますが、マニエリスムなどに受け継がれていきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年トスカーナ地方のヴィンチ村で生まれます。父は村の公証人ですが非嫡出子として生まれたため、正規の教育を受けられませんでした。後の膨大な研究の基礎はほとんど独学で得たとされています。父の家を継ぐことはできないため、幼い時から職人として自立するように求められていました。
14歳の時、ヴェロッキオのもとに弟子入りします。ヴェロッキオは彫刻が専門でしたが絵画も作成しており、多くの職人や弟子を抱えていました。弟子のなかには後年活躍するボッティチェッリやペルジーノなどもいました。この工房でレオナルドは本格的に絵画理論や絵画技術を身につけていきます。そのうち工房内でも期待され、師ヴェロッキオの作品にも協力します。

ヴェロッキオ『キリストの洗礼』
レオナルドは左端の天使と背景を担当した。『ヴェロッキオはレオナルドの才能に敵わないと筆を折った』とヴァザーリは記している。

20歳の頃、師匠から独立しました。絵画制作だけでなく、音楽家やメディチ家からミラノに派遣されるなど外交官的な役割、土木技師など多彩に活躍しました。

『受胎告知』
『受胎告知』では通常マリアの処女性をあらわすため、大天使ガブリエルが持つユリにはオシベを描かないが、レオナルドは描いている。科学者として処女での妊娠に疑問を持っていたのだろう。
『最後の晩餐』
通常裏切り者のユダはわかりやすく手前に描かれれるが本作品では報酬の銀貨の袋を持たせるだけである。ナポレオン時代に厩として使用するためイエスの足元に穴を開けられ失われてしまった。
『白貂抱く貴婦人』
ミラノ公の愛人をモデルに描いている。シロテンはミラノ公が受賞していたアーミン勲章の暗示。

1500年ごろから作品制作に遅筆の傾向が明らかになってきます。様々な研究をしていて時間が足りないこともありましたが、それ以上にレオナルドの完璧主義が拍車をかけたと言われています。
1503年には代表作『モナ・リザ』、1510年には『聖アンナと聖母子』、1514年には『洗礼者ヨハネ』の作成を開始しますが、結局亡くなるまで完成させられませんでした。

『モナ・リザ』
代表的作品。モデルはジョコンド夫人リザだが、その謎めいた微笑から様々な解釈がなされている。
『聖アンナと聖母子』
犠牲の仔羊からイエスを引き離そうとするマリアをアンナが引き留めていると解釈されている。親子であるはずのアンナとマリアがあまりにも年齢差がないため、レオナルド自身の実母と継母を描いているとされる。
『洗礼者ヨハネ』
同性愛の恋人の弟子サライをモデルとしている。サライは盗み癖があり、レオナルドが悪魔と名付けた弟子である。彼が『モナ・リザ』を相続し、フランソワ1世に売却した。

1516年にはフランソワ1世の招聘を受けて、フランスのアンボワーズに移ります。絵画制作や研究を継続しますが、1519年に亡くなります。享年67歳でした。

アングル『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』
レオナルドはフランソワ1世に看取られ亡くなったという伝説から描かれた作品。

彼の存命中の世間の評価は三代巨匠の2人(ミケランジェロとラファエロ)に比べれば低いものでした。しかし、19世紀になると、彼の膨大な手稿で書かれていたことが化学的に検証できるようになり、彼の偉大さが明らかになりました。彼の研究は時代の先端どころか、未来を進んでいたということでしょう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、まとめ終わりました。彼の実績は多過ぎて、どこをまとめるかが難しかったです。『モナ・リザ』だけで、一本書けちゃうよ‥。

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