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《日本史》後鳥羽上皇と後醍醐天皇

こんばんは。
Ayaです。
『鎌倉殿の13人』も最後の見せ場・承久の乱が近づいてきました。三浦義村の牙を抜いた(と思っている)北条義時が対峙する後鳥羽上皇について取り上げたいと思います。約150年後、鎌倉幕府を滅ぼすこととなる後醍醐天皇と類似点が多いと私は思っているので、この二人を比較しながら書きます。
※本稿は後鳥羽上皇、後醍醐天皇の表記で統一します。

後鳥羽上皇(1180〜1239)

後鳥羽上皇は1180年高倉天皇の第四皇子として生まれました。彼の誕生時、すでに平家全盛の時代であり、異母兄には建礼門院徳子が生んだ安徳天皇がいたので、皇位からは程遠い存在でした。とはいっても、平家側も彼の存在を無視していたわけではありません。彼の乳母として有名なのは藤原兼子(卿二位)ですが、その姉範子も乳母として仕えており、彼女の夫が平時子(清盛の妻)の弟・能円だったのです。
なので、1183年の平家都落ちの際は連行されそうになりますが、範子姉妹の弟の機転で辛くも逃れました。安徳天皇とともにもう一人の兄守貞親王(後の後高倉院)も連行されてしまったため、彼らの祖父・後白河法皇にとって、唯一の"手駒"となったわけです。すでに後白河法皇は平家を見捨てており、後鳥羽上皇の即位を強行します。問題は平家に皇位継承を象徴・『三種の神器』が持ち去られてしまっていることでした。そのため、後白河法皇は頼朝に安徳天皇の身の安全と『三種の神器』を取り戻すように厳命しました。しかし、1185年の壇ノ浦の戦いの混乱の中、平時子が安徳天皇を道連れに海に身を投じ、『三種の神器』も、鏡(八咫鏡)と勾玉(八尺瓊勾玉)は確保できましたが、剣(草薙剣)も海中に沈んでしました。結局、伊勢神宮から献上された剣が代用されることとなりましたが、このことが後鳥羽上皇のコンプレックスとなったことは想像に難くありません。
1192年の後白河法皇崩御後、親政を開始。同年頼朝は念願の征夷大将軍に就任していますが、これは九条兼実(四代将軍頼経の曽祖父)の尽力によるものです。兼実の専横が目立ち始めると、乳母範子の再婚相手・源通親と接近、通親の養女・在子が皇子(後の土御門天皇)を出産すると、兼実の娘・任子を後宮から追放し、兼実自身も失脚に追い込みます。
その後土御門天皇に譲位し、1202年に源通親が急死すると、やっと治天の君として実権を握ります。当初北条時政の娘婿・平賀朝雅を厚遇するなど鎌倉幕府との関係も良好でしたが、1205年牧氏事件の巻き添えで平賀が討たれたことで、衝撃を受けます。この事件により幼い頃の平家と源氏の対立に巻き込まれたトラウマが蘇ったのか、直属の武士・西面の武士を設置しました。
とはいえ、鎌倉将軍実朝とは妻同士が姉妹で、実朝自身も後鳥羽上皇を崇拝しており、友好的な関係を結んでいました。こどものいない実朝から後鳥羽上皇の皇子を後継者としたいとの申し入れもあったぐらいでした。しかし、この関係も実朝の暗殺によって終わりを告げます。
実朝の横死により、鎌倉幕府への敵意を顕在化させた後鳥羽上皇は、皇子の引渡しを拒否。幕府側も、内裏の修繕に援助を断るなど、対立は深刻化していきます。
後鳥羽上皇も準備を怠っていませんでした。当時長男・土御門天皇から寵愛の次男・順徳天皇に譲位させていましたが、彼を謀議に参加させます。身軽にしておいたほうがいいとのことで、順徳天皇にも子の仲恭天皇に譲位させました。また腹心の藤原秀康に命じて、三浦胤義(義村の弟)を抱き込みます。
こうして、1221年北条義時を謀反人とする院宣を下します。北面・西面の武士たちに加え、寝返った一部の武士たちが、京都守護伊賀光季に襲いかかったのです。こうして、承久の乱の火蓋が切られました。
上皇側は院宣がでた以上、義時に味方する者はいないだろうと予想していました。
上皇側の予想通り、院宣がもたらされると幕府側は動揺しました。しかし、大江広元や三好康信ら老臣に励まされた政子の演説によって大勢は変わります。実際の演説は安達景盛による代読でしたが、頼朝の妻であった政子の力で、御家人たちは一致団結したのです。
一致団結した以上、彼らの行動は迅速でした。泰時を司令官とする軍勢はすぐさま京へ出撃していきます。上皇側は攻めてくるとは予想していなかったため、総崩れとなりました。どうにか生き残った上皇側の武士も、上皇が見捨てて御所の門を閉めきったため、あえなく討死していったのです。
上皇は比叡山延暦寺に助けを求めましたが拒否されたため、幕府側に投降します。上皇は側近らが勝手に画策したと主張しましたが、勿論幕府に通じるはずがありません。後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島への配流となり、わずか四歳の仲恭天皇も廃されてしまいました。また計画に関与してなかった土御門上皇も自らの意思で土佐へ移りました。(のちに阿波に異動)
後鳥羽上皇は失意のなか隠岐島で崩御したのです。享年60歳。

以仁王の令旨を受け取った頼朝が立ち上がって成立した鎌倉幕府は、皇位継承にも関与するほどの権力を確立したのでした。
仲恭天皇が廃位されたので、後鳥羽上皇の兄後高倉院の子後堀河天皇が即位しました。しかし、後堀河天皇の子四条天皇が若くして崩御したため、血統が断絶してしまいます。
結局、鎌倉幕府の許可を得て、承久の乱に直接関与していなかった土御門上皇の子後嵯峨天皇が即位することとなりました。しかし、彼の次男亀山天皇への偏愛が、持明院統(長男後深草天皇の系統)と大覚寺統(次男亀山天皇の系統)の対立を招いてしまうのです。

後醍醐天皇(1288〜1339)

後鳥羽上皇と同様に、後醍醐天皇も皇位を継承できる可能性は限りなく低い立場で生まれました。兄(後二条天皇)がいただけでなく、皇統が分裂していたからです。
後嵯峨天皇は次男の亀山天皇を寵愛し、長男の後深草天皇を冷遇していました。その結果、皇統は分裂し、鎌倉幕府の仲介によって、順々に皇位を継承することとなったのです。
そのため、後醍醐天皇が即位したとき、すでに31歳となっていました。この年齢での即位は平安時代末の後三条天皇以来であり、異常なことでした。親政を開始した後醍醐天皇は博識で政治への意欲も強く、なんでも幕府の許可が必要なことに不満を持つようになります。また皇太子には持明院統の皇子が立てられており、譲位の圧力にも反発していました。こうして幕府討伐を画策しだした後醍醐天皇でしたが、2度も露見してしまいます。幕府も放置できなくなり、隠岐島への流刑となります。流刑先から逃亡した後醍醐天皇は、幕府に不満を抱いていた有力御家人の足利高氏や新田義貞を鼓舞し、1333年鎌倉幕府を滅亡させました。
鎌倉幕府を滅ぼして得意満面の後醍醐天皇でしたが、その天下も続きません。実際に幕府を滅ぼした武士たちを無視した彼の政治は彼らの反発を招くものだったのです。足利尊氏をはじめとする有力武士たちに離反され、少ない味方の楠木正成や新田義貞を失った後醍醐天皇は、1339年崩御しました。享年52歳。
足利義満によって南北両朝は統一されましたが、南朝側にとって不利なものであり、その後も南北朝の対立は燻り続けました。

後醍醐天皇については後日詳しくまとめようと思います。
後鳥羽上皇、後醍醐天皇には共通点が多いです。不遇を囲った過去があり、どちらも政治意欲の高い人物でした。しかし、武士たちを軽んじていたために、彼らからの人望を失い、失意のなかで崩御しました。
鎌倉時代の初期と末期に類似点の多い二人が登場することに私は興味深く感じます。




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