【短編小説】メンソールのお姉さん(前編)

 十代の頃、ほんの少しだけ霊感がある時期があった。初めて行く場所で妙に寒気を感じたり、駅やデパートで明らかに季節感の違う服をきている子どもをみたり。今思えば、多感な時期ならではの思い込みや想像力だったのかもしれないけれど、ひとつだけ、忘れられない霊体験があった。

 高校三年生の二学期の途中から、私は訳あって一人暮らしをしていた。今でいうシェアハウスみたいなところで、50代の学習塾を経営している大家が隣の母屋に住んでいた。
 古いアパートを改造した建物は、見た目も設備もおしゃれとは程遠い。その分、家賃は激安で、どうしても家を出たかった私は、この家の情報を不動産屋の貼り紙でみつけると、飛んで帰って親を説得した。必死だった、あの時はすごく。

 1階に2部屋、2階に3部屋の合計5部屋があり、玄関、台所、ランドリーは共有で、トイレとシャワールームが各部屋についていた。住民のほとんどは近所の大学に通う学生で、高校生は私だけだった。

 友だちには、一人暮らしをしていることを言わなかった。言うと好奇心で根掘り葉掘り聞かれそうな気がしたから。
 受験が終わり、晴れて県外の志望校に合格出来たら堂々と家をでて一人暮らしができる。それまではこの7畳の部屋が私の居場所だった。

「あ、しまった」
 汚れものを洗濯機に放り込んだ直後、洗剤を部屋に忘れたことに気づく。
あちゃー、どうしようかな。
 この間、ちょっとだけ洗濯機を放置してたら、容赦なく洗濯物が床に放り出されていたからな。ほんの数分だけだったのに。たった2台しか洗濯機がないから、争奪戦なのだ。
「使いますか?」
 液体洗剤がさしだされ、振り返ると髪の長いお姉さんが微笑んでいた。
 肩までかかった茶髪、細い腰、ジーパンにパステルグリーンの薄手のタートルネック。
 び、美人な人!
「いいんですか? ありがとうございます」
 ドキドキしながらも、ありがたく洗剤をキャップ半分いただいた。蓋をしっかり閉めて、大げさに深々と頭を下げる。
 私の仕草に、お姉さんはくすくす笑う。
「それじゃ」
 彼女は、ランドリーの横にあるベランダへ出て行った。しばらくして、窓の隙間から、ペパーミントみたいなスッとした刺激のある煙草の匂いが流れてきた。
 10月始めとはいえ、まだ暑い日もあるのにもうタートルネックを着ているなんて珍しいな…。おしゃれな人は季節を先取りするっていうから、オシャレに敏感な人なのかな。
 それが、友梨佳さんの最初の印象だった。

 彼女は、私と同じ2階に住んでいる近くの女子大の英文科に通っている20才で、千葉友梨佳といった。
 洗剤をわけてもらって以来、「友梨佳さん」と呼ばせてもらい、ランドリーで会った時には話をすることが多くなった。友梨佳さんはたいてい夜の21時くらいになると、ランドリーの隣のベランダで、たばこを吸っている。たった2才しか違わないのに、私には友梨佳さんがずいぶん大人っぽくみえた。話し方も仕草も佇まいも、服装もおしゃれだった。くつろいだ家着姿なんて見たことがなく、首周りにはいつもおしゃれなスカーフやネックレスをしている。タートルネックの服を着ていることも多かった。

「このアパートさ、でるよね」
 ある日のこと、白い煙を吐きながら、友梨佳さんがふと言った。
「え、出るって…」
「1階のキッチンの横の廊下と2階の階段の踊り場。小さい子どもかな。感じない?」
 ドキリとした。実はずっと思っていた違和感だった。ここのアパートには、なにかがいる。
「友梨佳さんも? じつは、私もなんとなく嫌な感じがしていて」
 興奮気味に言うと、友梨佳さんはうんうんと頷いた。
「あたしもあなたも、視えちゃう人なんだね。やだね、気づかないでいれたらいいのにって思わない?」
 友梨佳さんは憂鬱そうにそう言った。
「私はそんなにはっきり感じるほうじゃないんだけど。なんとなく、そうかなって思うくらいで」
「小さい頃から?」
「高校生になってからかな。なんとなく、そういうのを感じる時が多くなった気がします」
 昔は幽霊やオカルトなんて全く縁がなかった。
 中学の時、林間学校の肝試しで、「幽霊をみた」と騒いでいる子たちが何人かいたけれど、当時の私は何も感じず、騒いでいる子たちを「非現実的だなあ」なんて白けた気持ちで見ていたというのに。あとで知ったけれど、そこは地元で有名な心霊スポットだったらしい。
「もしかして、高校生になってからさみしい気持ちになることが多くなった?」
「え?」
「さみしいって思ってる人は寄せやすいんだって。だから、高校生になって寂しく思うことが多くなったのかなって思って」
 友梨佳さんがたばこを携帯灰皿に押し付けて、私を見つめた。
 言葉がじわじわと胸にしみる。
 友梨佳さんが、話を聴く姿勢でいてくれていることが分かる。てきとーにはぐらかして目を逸らしてしまうこともできたけれど……。
「……高1の時、親が離婚して…」
 気付けば、ポロリと口火を切っていた。それをきっかけに堰をきったように言葉があふれる。
「ずっと仲が悪かったから、私が中学を卒業してしばらくして。それは、全然いいんだけど、これからお母さんと二人で暮らしていくんだって覚悟できてたし…。でも……お母さんもすぐ結婚しちゃった。弟も生まれて、弟はかわいいんだけど、私だってお世話してあげたかったんだけど……」
 胸がぎゅっと苦しくなる。
 あの日学校から帰ってきたら、リビングで弟の泣き声がしたから、私はカバンを床に置いて、弟を抱きあげようと思って手を伸ばした。
 でも、お母さんは慌ててやってきて、私の手を払いのけたんだ。
「手を洗わずに赤ちゃんに触らないでちょうだい」
 キッと私を睨みつけて、お母さんは弟を抱きあげた。弟をあやすときの猫なで声、自分のことを「ママよ~」というお母さんの声。
 鈴の入った布製のボールが、ベビーベットから転がり落ちた。リビングは弟のおもちゃやおむつや粉ミルクの匂いで満たされていた。
ーーーーここに、私の居場所はない。

 わっと突然気持ちがこみあげて、私は声を上げて泣いた。友梨佳さんは無言で肩を抱いてくれた。一度決壊した気持ちは、なかなか収まらない。
 些細なきっかけだった。「なに、そんなことで?」と言われるほどのとるに足らないシーン。だけど、あの瞬間に私は足元が崩れ落ちていくような言いようのない孤独を感じた。
 友梨佳さんは、泣き続ける私の頭を撫でて言う。
「いいよ、好きなだけ泣きなよ。そばにいるから」
 優しい友梨佳さん。どうしてだろう、友梨佳さんになら、言ってもいいかとポロリと出てしまった。たぶん、友梨佳さんも寂しい人なんだと、本能で感じたからかもしれない。

 秋が深まり、夜は風が冷たくなってきたけれど、私たちはたびたび、こうしてベランダで話をした。
 距離が縮まってくると、友梨佳さんは「じつはあまり大きな声ではいえない恋をしている」と、こっそり教えてくれた。彼女が寂しい理由はきっとそれなんだろうと思ったけれども、子どもの私にはそれ以上の想像はできなかった。自分の未熟さが悔しかった。あの日、友梨佳さんが泣きじゃくる私の頭を撫でてくれた恩返しを、いつかすることができるんだろうか。

 秋は台風がよく発生する。その日は、大型の台風が近づいていて外は大雨で暴風が吹き荒れていた。
 私は一人、部屋で勉強していた。試験勉強は大詰めだった。年が明けたらすぐに本番だ。一人暮らしを始めてからは弟の泣き声を聞かずに勉強に集中できるようになれたおかげか、成績はすこしずつ上がってきている。

 23時を過ぎ、24時になったらお風呂に入ろうと思っていた矢先、突風が、ぶおんっとうなりを上げ窓と壁を揺らした。地震と勘違いしそうな地面の揺れを感じた直後、背後のドアが、ドンドンドンっと叩かれた。
「キャ……っ」
 風のせい? まさか、玄関のドアは廊下に面しているのに?
 ドーン、ドーン、ドーン!
 ドアを叩く音は、だんだん大きくなっていく。誰? こんな夜に、誰なの?
 まさか……幽霊?
 時折、階段の踊り場で目の端に気配を感じる子どもの霊を思い出す。いつも膝を抱えて座り込んでいる、男の子か女の子かもわからない、不穏な気配ーーー。背中に冷たいものが走り、とっさにベッドに入り、布団を頭から被った。
 やがて、ドアのノックがやんだ。
 いなく……なった?
 布団をかぶったまま、耳だけ澄ましす。
 すると、遠くの方で私の名前を呼ぶ声がする。呂律が回っていないのか、何を言っているのかわからないけど、あれは……。

 ある予感がして、私はベッドを抜けだし玄関の覗き穴から外を見た。そこにいたのは、義父だった。
 なんで、こんな夜に? しかもどうやら酔っぱらっているようだ。
 さっきとは違う嫌な緊張が走った。このまま開けずにいる? とりあえずお母さんに電話しようか……。
 考えているうちに、またドアが叩かれた。まずい、このままじゃ近所迷惑だ。私は仕方なく、ドアを開けた。

「遅いよ、もー。あ、寝てた? ごめんね、こんな遅くに。飲んでたら暴風で電車止まっちゃって、タクシーも捕まらなくてさー。そういえば家が近かったなあと思って来ちゃった」
 義父は、へらへらと笑いながら部屋に上がり込む。酔っぱらっているらしく、全身が酒と油臭い。思わず顔をしかめた。
「……おい、なんだよその目。父親が娘の部屋にきて何が悪いんだよ。ここの家賃だって、俺が出してやってるんじゃねえか」
「大きな声出さないで。近所迷惑だから」
 義父は鼻を鳴らして、靴下を脱ぎ散らかすと私のベッドに倒れこんだ。
「水。はやく」
 仕方なく、私は水道水をコップに入れて義父に渡した。喉を鳴らして水を飲む仕草にすら、嫌悪感を覚える。
 私は家に電話をかけた。しつこくコール音を鳴らしてみるけど、でない。
「あいつ今いないよ。実家に帰ってる」
「え?」
「まったくあいつ、子ども生んでからピリピリピリピリして、口うるさいんだよ。息がつまっちゃう。お前が出て行ったもんだから、八つ当たりできる人間がいなくて俺のとこにしわ寄せがきてるんだよ。はー、ちょっと離婚した旦那の気持ちがわかるわ。結婚前は、よく気の利く大人の女ってかんじでよかったんだけどなー」
 あけすけな義父の話し方にイライラが募る。
 お母さんの5つ年下で、パート先の同僚だった人。
 社交的だけれど、鈍感で我慢が利かなくて自分の身の回りにだらしない人。鈍感でだらしないという点では、お父さんもそうだった。お母さんはなんでそういう男に引っかかるんだろう。 
 今すぐ、部屋を出ていきたかった。でも、外は大荒れの天気だ。この人も酔っぱらっているし、ただ、部屋に置いておくだけならたぶん、大丈夫だろう。私は、ペン立てに入ってた鋏をそっと握りしめ、ばれないようにポケットにいれた。
 イヤホンを耳につけ、勉強に戻る。よし、今日はもう徹夜で勉強しよう。

 いつしか、本当に勉強に集中していた。必死になって数式を解いている間、義父はベッドでいぎたなく寝ていると思っていたのに……ふと、脇から腕が見えたと思ったら、私は義父に抱きすくめられていた。
「つかまーえた。勉強ばっかしてないで、ちょっとは構ってよ」
 酒臭い息が頬にかかり、全身の毛が総立つ。
 いつかの、嫌な記憶が蘇る。
「いや!」
「叫ぶなよ。何も変なことしないよ。ちょっとだけ、ちょおとだけ、親子のスキンシップの範疇だって」
 義父の手が、私のお腹や太ももを撫でまわす。ポケットに入れていたお守りの鋏を採ろうと必死にもがくけれど、がっちりとホールドされて動けない。
「やめて!!」
 いやだ、いやだ、いやだ!
 どうしてこんな男に触られなきゃいけないんだ。なんで、動けないんだ。誰も助けてくれない。誰も、誰も、誰も。
「お母さん!」
 叫んでも、あの時、お母さんは助けてくれなかった。
 その時、また外で風が大きくうねった。ゴオーと音を立て、窓は割れそうなほどガタガタと揺れた。壁を叩きつけるような轟音がして、電気が消えた。
 瞬間、ふと嗅ぎなれたメンソールの煙草の匂いがした。
「……あんたみたいなくそ、死んじゃえ」
 服が焦げるようなにおいがして、義父が悲鳴を上げて私から飛びのいた。
 暗闇の中で、ゆらりと影が動いた。
「くそっ、誰だ」
 友梨佳さんだった。

続く⇒【短編小説】メンソールのお姉さん(後編

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