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東浩紀「訂正する力」を読んで/本の話

東浩紀「訂正する力」を読みました。

このごろ、あずまんブームが到来している。(どうやら東さんはあずまんと呼ばれているらしい。落合陽一さんも対談であずまんって呼んでいた。ので、乗っかってみた)

YouTubeのライブ配信のアーカイブも2つみた。一つが4時間くらいあるけど、どちらも丸ごと見た。哲学やサブカルは無論のこと、音楽や映画や世界史や、なんでも喋れる人で、この人すごいと何度も思った。喋りも上手い。そしてとことん現実で戦っている方だなとも思った。饒舌に流れ出る知識量が圧倒的でなんかもう違う次元の人だって感じるんだけど、論壇や世間に憤ったり、コメントに傷ついたり、落ち込んだりして、大変人間臭くもある。

この人、人生を生きてるなぁって、思った。理論と実践の両輪を全力で駆動させて真っ正面から戦って生きてる人だって。

そんなアーカイブの中で、あずまんが何度も「是非買ってくれよ!」と言っていたので、いつも古本の私ですが(悲しいかなお金がない)、ちゃんと本屋さんで新品を買ったのが「訂正する力」。
そうやって「本を買ってくれ!」と言うのも考えさせられた。私、花売ってるけど「買ってくれ!」ってちゃんと言ったことないような気がする。。。

さて、本の中身ですが、とても面白かった。

訂正する力とは 一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変えて変化する力のことです。 それは、 継続する力であり、 聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。

今の日本は、自分の意見を変えれない、間違いを認めれない土壌がある。それは、「ぶれない」ことがアイデンティティとなり、一貫性が良いこととされいるのに加え、誤ったら負けという風潮がある。また意見を変えると攻撃の対象になってしまいかねいという恐怖心もある。近年の論破ブームはそれを強固にしている。論破は相手の主張の矛盾を突くこと。だから、一度主張したことを取り下げたり、変更したりすることが困難になってしまっており、それが事態を硬直化させてしまっている、と。

なので、過去を引き受け、それを訂正する力が、変化をもたらす原動力になる、という筋でした。

この辺を、哲学的論理を交えて書かれていて、説得力もあり読み応えあった。特に ロシアの文学理論家ミハイル・バフチンの対話の定義の話や、オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを引いた論考は興味深かった。

そして、私が一番胸熱だったのは、訂正の学問である人文学の重要性について言及していたところ。

120ページあたり

未来の可能性は、過去の訂正によってこそ切り開かれると考えます。だから、できるだけ多くの過去の可能性を蓄積しておくことが、未来を豊かにすることだと考えるのです。(中略)人間が人間であり、過去を記憶する存在である限り、理系の発想だけで、社会が追われる事はありえないからです。

ここは、理系と文系の比較で学問のあり方を述べているところなんだけど、すごくストン落ちたとこだった。

人文学の大切さってなんか説明しづらいんだけど、こうやって訴えたらいいのか、、、と思った。東さんて、ほんとに言語化が素晴らしい。

その他、作家性や固有名詞の話、余剰の情報の話、祭りの話、コミュニケーションの身体性の話、体験をうる話、、、などなど、どこもかしこも面白かった!

とにかく読んでくれ!!
買ってくれ!(なぜ私がいう?)
そんな本だった。

これを読んだ人と私は語り合いたい。
誰かいませんか?

本の中に、親密な公共圏を作るってところがあって、分かり合えないからこそ訂正していくコミュニティの必要性が書かれているんだけど、仲間っているよね。

東さんの会社「ゲンロン」にはゲンロン友の会という会員制度がある。興味ありありだけど私の懐事情では入会は難しい。本格的なのじゃなくても、月に一回くらい実際に集まってあれやこれや喋れる仲間がいたらいいなと思った。外山滋比古先生も雑談の力のこと書いてたしなぁ。なんかないだろうか。

とか考えが広がる本だった。


やっぱり本は面白い。

栫彩子(カコイアヤコ)関西が拠点のフリーのフローリスト。 店舗を持たず、受注制作でアレンジ・花束を制作し宅配便でお届けしています。書くことも仕事にしたい。。有料マガジン「たゆたうものを編みたくて」でエッセイを書いています。趣味は読書と英語と3DCG”


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