私たちは「つながり」と共存できるのか。~私とSNSとインターネットと~


私はインターネットを愛している。なぜならそれが私の命綱だったからだ。

インターネットが私に可能性をくれた。人とつないでくれた。情報をくれた。生活を豊かにしてくれた。私に仕事をくれた。そして私を苦しめた。

「さよならインターネット」2年ほど前、そんなタイトルの書籍が発売された。その言葉を目にしたときに、その一言が何を示しているのか一瞬で感じ取って胸を突かれるような、そんな気持ちになった。

もちろん少しあとの世代で、いちユーザーの私には理解しきれない範囲のことも多いだろう。人を自由にしたインターネットと言う概念は、あまりにも広く生活に根付いて輪郭をなくしていった。大きすぎて意識しない。むしろ範囲が広すぎてどこを指したらいいかわからない。

その本の中にインターネットは若者にはハサミのような感覚とあったけれど、どちらかというとインフラであり、電気に近いのではないだろうか。

その中で、多くの人が日常的に触れる「ネット上」というのは主に検索とSNSになっているだろう。

インターネットは「つながり」だ。「居場所」「つながり」が必要だ、と生きづらさの支援ではよく語られる。

そして今、私はSNSを前に、迷っている。そこで改めてこの言葉をふっと思い出した。私はインターネットを、SNSをどう捉えたらいいのだろう。そしてインターネットとどう向き合えばいいんだろう。エンジニアでもない、ただのユーザーの私が。そしてインターネットに救われ希望を見出して、そのインターネットを使いながら、社会変えたいと願い動く、30歳の私は。

私は10年前に、集団痴漢をきっかけに引きこもりになった。それまでにも複数の性被害に遭った結果だった。対人恐怖と言うと「人間が嫌いになった」と思うかも知れない。でも私は人間が好きだった。まだ好きだった。

それでも電車に乗ると、人口密度の高い密室に行くと、ストレスが掛かると意識が途切れて倒れてしまう。話したいのに声が出なくなったり頭が混乱することがある。体調が常に悪く、一日中吐き気とめまいで意識が朦朧としている。そんな状態だったので「外に出たくてしかたがない」のに出られなかった。「倒れるなら迷惑だから外に出るな」もっともだ。でもそういう人間のつながりは遮断されてしまう。

そんな私のつながりはSNSで保たれた。近況はSNSで伝わり、それを見た友人たちが心を支えてくれた。外に出られなくても当時流行していたmixiで友人の近況を知り、MSNメッセンジャーやSkypeで友人と交流した。

もちろん離れた人もいたし、恋人や家族の直接の支えも大きかったけれど、私が人を嫌いにならないでいられて、今も「人を好きでいることを諦めたくない」と思う原因に、SNSやインターネットは大きく関わっている。

当時の私は当時mixiというSNSとアメーバブログをやっていた。稚拙で見返したくない黒歴史でもあるかもしれない。それでも私はmixiで繰り広げられる自意識の発露も、知らない人のなんでもない日常を綴ったブログも好きだった。普段話しているだけではわからないその人の面白さを感じることができたように思う。

実は私はまだブログと言う概念が浸透していない高校時代から、日常生活や考えていることを綴ったブログを書いていた。アメーバブログが1位になったら100万円とかやってた頃。もう消しているので見られないけれど、日常に事件も多く女子高生ということもあり、そこそこアクセス数があり読者もつき、順位も悪くはなかった。まったく知らないはずで、ちょっとだけどんな人かわかる。そんな出会いと知らない人の日常が面白かった。新しいプラットフォームが出来上がっていくのにワクワクした。

世の中は掲示板からブログになり、ブログからSNSへ、少しずつ匿名から固有の発信へ、そして一方通行前提から双方向のやり取りに移行していったように思う。

性暴力被害を公開し始めたのも最初はブログとmixiのコミュニティだった。学生時代に意識高い活動をしていたときも、イベントをmixiのコミュニティでしたり、告知されたイベントに行ったり人に会いに行ったりした。

とくに有名なわけでもなく影響力もない私が、社会に発信する架け橋をしてくれたのはインターネットだった。家にいながら、寝込みながらでも自分の声を外に届けることができた。

そしてiPhoneの登場で、私はベッドの上だけでなくベッドの中でまで外の世界につながることができるようになった。携帯電話で外のつながりは果たしていたものの、できることの広がりが圧倒的だった。仕事だってできる。寝込みながらも自分にできる仕事を探し、いろいろな仕事をした。

その後波がありつつも、元気になって動けるようになってからも、動画や音声の配信、告知などSNSやWEBサービスなどは欠かせないものになっていた。

しかしインターネットは、私を苦しめる要因でもあった。インターネットはつなげてくれる。距離を縮めてくれる。縮めすぎて本来は見えないはずのものが見えてしまう。遠いはずのものを近くだと錯覚してしまう。

性被害を公表した私には、中傷や性的なメッセージが届く。道端で会ったら直接顔を見ていたら言えないようなことも投げつけられてしまう。親近感を持ち、親しいと錯覚してしまうこともある。

引きこもっている間や動けないとき、自分がうまくいかないときの友人たちの活躍は眩しい。本来は見る必要のないものでも見えすぎて、違うものが目につく。コンプレックスや対立を招く。

ニュースなどに言及し、誹謗中傷する言葉を見て、「もう人間はだめなんじゃないか」と思うことは何度もある。なにをしてもこんなの変わるわけないんじゃないか、と。

共存するには適切な距離が必要だ。そして内心の自由を確保するには、翻訳が必要になってくる。

サトラレと言う漫画原作の作品が流行したことがある。思ったことがそのまま人に伝わってしまう体質のサトラレと呼ばれる人たちの話。自分の内心がそのまま伝わることは幸せとは限らない。思ったことと伝えたいことは違う。あれと同じことがネット上で起こっているんじゃないだろうか。

行きつけの整体で「SNS上でトラブルがあって大変だ」とこぼしたことがある。
インターネットに疎い整体師さんに「ネット上に書かれたことがそんなに実世界に影響するの?」と問われ、はっとした。

インターネットはいつの間にか実世界と全く切り離せないどころか、「見なければいい」で済まされないものになっていたことに気づいた。

「どこでも仕事ができる」ということは「どこでも仕事を意識しなければいけない」ことにもなる。どこにいてもつながっている。連絡が取れる。取らなくてはいけなくなる。つながりは大事だけれどときに苦しい。

昔は2ちゃんねるに自分の悪評が書かれていても、無視すればいいで終わっていた。でももう今はインターネット上でミスをしたなら今は「ネット上だから」では済まなくなっている。実世界での影響に密接に関わっている。それどころか膨大な情報が収集されていく。ネット上には確実にもう社会ができている。それは匿名と実名関係なく。

ネット上の言葉で人が死ぬ。そんなことも珍しい話じゃない。インターネットやSNSはあくまでつながりでありプラットフォームだ。インターネットが悪いわけじゃない。

私はTwitterが好きだった。フラッシュバックが再発し、再度引きこもった私を救ってくれたのは今度は匿名で始めたTwitterだった。Twitterが趣味の世界の人々との交流をもたせてくれた。発信する訓練をさせてくれた。

ちなみにに言うと私はFacebookはずっと、あまり好きではない。広がりを感じずパーソナリティが見えてこなくて中途半端に感じる。Facebookは私にとってはもはや半分仕事で名刺になっている。オープンとクローズドを両立できるつくりをうまく活用すれば安心できるツールになるのかもしれない。LINEはSNSでなく連絡ツールと思っている。

しか最近SNS、特にTwitterというツールを前に立ち尽くす気持ちになることが増えた。どこにいっても、つながるスピードが加速している。進歩したから距離を縮めたからこそ早くなった。情報が増えたから埋もれるようになった。

「国語力がない人がいる」と言われたりもするけれど、正確には「国語力を発揮しにくいツール」なんだと思う。

現在のSNSは全般そうだけれど、特にTwitterはものすごい速さで情報が流れていく。その中ではわかりやすい言葉や極端な発言、そして何よりも「感情を煽られるもの」が優先して拡散される。

ゆっくり読んで推敲をしている暇などない。ダイレクトに繋がっている。
そして自分の見たいものだけをフォローして集められ、その上で自分と全く違う異分子が突然現れる。たとえ同じ文章を引用したとしても、引用のしかたで感情が誘導され、まともに考える余裕がない。

極端な声だけが響いていく。丁寧な発信が響かないわけじゃない。でも丁寧で誠実に感じるような発言には、「何か言いたくならない」のだ。SNSは「自分が発言するためのツール」だから。人の発言はその材料に過ぎない。

それにより、それぞれ自分が反対するものの極端な姿があぶり出されて、それがすべてのように錯覚する。そのことで断絶が生まれている。交流しているようで全く交わっていない。伝わっていない。

たとえば性暴力の話は、加害があることは極端な一部の行動ではない。しかしその現状がわかっていない人からしたら「なんでもセクハラと言う」というイメージを強化するための、“なんでもセクハラと言っている例”になる極端な発言が見えると「言いたくなる」し、広まる。

しかし、その分野に尽力をしている人でそんな極端なことを論点にしていることはほとんどない。そこで断絶が生まれて埋まらない。

この中で「伝える」ためには、情報発信に徹して人間ではなくなるか、感情を煽りつづけるか。どちらかしかないのか。

MeTooや様々な事件が話題になり、今までにないくらい取り上げられ広がっている。性暴力のことを伝えるのなら、今がチャンスだとも言える。まさにTwitterのようなSNSはカミングアウトのハードルを下げた。しかしなにか苦しく感じて、このままではいけない気がして、うまく動けない自分がいる。

私は正直言ってSNSの使い方はうまくない。文章もバズるようなものではない。私の伝えたいことはいつも、シンプルなことのはずなのに、「わかりにくいこと」だ。揺れも間違いもある、その上でどう生きるかを模索し続けている。

つながったこと、距離が近くなったこと、はやくなったこと。それは圧倒的な力になる。力は常に暴力性とセットになっている。

便利になっていく、今まで届かなかった人と関われる、知らないことに触れることができる。テクノロジーの進歩はワクワクする。

「もしかしたら今までにできなかったことができるかもしれない」「届かなかったところに届くかもしれない」そんな期待をやはり捨てたくない。

私にはまだどうしたらいいのかなんてわからない。ただ、私はなんのためにインターネットを使うのか。SNSでつながるのか。なぜ社会問題に対し活動や発信をしているのか。それはきっと同じことなんだと思う。

それは私が生きやすくなるため。自由になるため。納得するため。楽しく過ごすため。幸せに生きるため。

そしてそのためには、自分のエゴだけど、やっぱり「人を幸せにしたい」「自分のほしい景色を自分の力で作りたい」と言う気持ちがある。

人間は汚い。すべての人を愛することはできない。それで構わない。それでもその上で、わかった上で共存したい。人を好きでいることを諦めたくない。

その根本の気持ちだけは忘れたくないと思う。

前述したサトラレは未完で終わっているけれど、サトラレなりに生きるという生き方があった。サトラレの特性や人間性を活かし、伝わって共存していた。

つながりも距離もスピードも、調整して、ゆっくりと。上手じゃなくていい、有益なコンテンツじゃなくていい。自分の気持ちと人の気持ちを掘り下げる。そんな機会が今もっとほしいと思って、今思うことを、まとまりきらないけど、書ききれないけれど、書きなぐってみた。

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卜沢彩子

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