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【花束みたいな恋をした】『茄子の輝き』を読んで、なぜ絹ちゃんは涙したのか💐

『花束みたいな恋をした』の作中では、絹と麦が共通して好きな作家、音楽、映画が固有名詞を用いて沢山飛び交っていましたが、(きのこ帝国、今川夏子、押井守などなど) 

 中でも、『茄子の輝き』は本の装丁しっかり写す、長いカットの演出が印象的だったので、この作品が絹と麦との間で、どんな意味を持っていたのか、考えてみたいと思い、読んで考察してみました。

 この本が映画の中でどんな意味を持っていたのか。
皆さんも是非読んでみて、自分がこの作品を”どう感じるか”も考えてみて欲しいです🍆  

■共感し合えていたものが、共感し合えないものに変わる悲しみ


滝口悠生著、『茄子の輝き』。映画の中では、こんなシーンの中に在った。

『茄子の輝き』を読み終えて、感動と共にふうと息をついた絹は、
 仕事・出張で忙しそうな麦に、「息抜きに読んでみたら」と勧める。
 その最中に、麦の会社の先輩から電話があり、彼は本を無造作に机のうえへ置き、その上に書類をどさどさと置いていった。
 出張当日、麦は『茄子の輝き』を、リュックに入れて一応持っていくが、 車のトランクに載せていたそこからこぼれ落ち、
 地面に落ちた本を乱雑にトランクに置く。
 結局、麦がその本を読むことはなかった…と思う。 

元々、本・映画・音楽の趣味が合ったことをきっかけに意気投合し、付き合い始めた絹と麦。
 このシーンは、二人の間にあった、「同じものを好きであるという」ことで成り立っていた一つの絆がねじれ始めていることを示している。
 二人の恋愛がこの先うまくいかなくなる前兆の演出として、『茄子の輝き』は使われている。 

■ねじれの根元は、現状維持の捉え方の違い

 そんな印象的なシーンで用いられている『茄子の輝き』は一体どんな内容なのかと言うと…  

『茄子の輝き』の中で描かれているのは、主人公の市瀬が離婚した元妻、伊知子との記憶を辿る日々。
 離婚してから8年間の月日が経っているにも関わらず、 新しい女性と関係を持つこともない。
伊知子との思い出のアルバムを引っ張り出してきては、酒の肴にしたり、職場の同僚 千絵ちゃんに好意を持ったかと思えば、彼女の先に伊知子との思い出を重ねている。 

 6編の連作からなる、計200Pの物語だが、とくに何かが起こる訳でもない、 平凡な生活の中にある、一人の男の心の動きを捉えた作品だ。 作品の中に在るのは、妻と別れた寂しい男の、平凡な日常なはずなのに、彼の生活のひとこま ひとこまを見ていると胸がいっぱいになる。
きっとこれを読んで、「ふう」とため息をつくほど心が動いた絹ちゃんも、 こっち側の人なのだ。  
絹と麦が同棲を始めた日、麦の「僕が望むのは、絹ちゃんとの現状維持です」という台詞があったが、  自分が変わらずとも、好きなものを好きで居続けること、それが彼女にとっての現状維持の意味する所だった。
 一方の麦くんは、生きるために、自分が変わること、そのためには好きなことも諦める覚悟でいること。変わらずいるために、変わり続けることが現状維持だと考えている。
 ウォルトディズニーが、「現状維持では、後退するばかりである」という言葉を遺しているけれど、 まさにこのスタンスだと思う。
彼は、意味のあること・より良い方向に変わる・成長することを求めて、ビジネス書を好んで読むようになった。 

絹と麦の言う「現状維持」が違う意味を持つようになってしまった以上、この、「好きなものを好きでい続ける」という意味での現状維持を表現している『茄子の輝き』を「良いよね!」と共感し合える日はもうきっとこない。
 

■『茄子の輝き』で描かれる、”今ここ”と”かつて”の情景の対比が花恋とリンクする

『茄子の輝き』の中では、 今ここの記憶(千絵ちゃん)とかつての情景(伊知子)が対比のように描かれている。  

千絵ちゃんの頬や、アロハの袖から出る二の腕を見れば、 そこには柔らかな表面の内に溜め込まれた水溶性の時間がある。 餃子を口に入れて、熱い!と言いながら上を向いて口をはふはふ言わせている千絵ちゃんの顔面がまた光り輝く。(『茄子の輝き』より)
同じ時間、同じ場所で違うものを見て、違う記憶をあとから夫婦で振り返る。するとそこにどちらのものでもない、言わば夫婦の記憶、のようなものが生まれる。 旅行に限らず、そういう夫婦の日々の記憶が、ふたりの時間、ふたりの過去、離れがたくあらしめる愛着のようなものを形成していく。 たしかにその感触ならあったはずだが、今ではもう取り戻せない。電車のなかで眠っている妻の顔さえ、写真に写ったまま硬直して動かない。(『茄子の輝き』より)

 前者の、会社の同僚、千絵ちゃんを描くシーンでは、二の腕の表現がとてもリアルで、温度までも伝わってきそうなくらい鮮やかに描かれるのに対して、
かつての妻伊知子との記憶は、写真の中に写る時の表情しか思い出せない、硬直したくすんだ記憶になっている。

これは、『花束みたいな恋をした』の中でも、いまとかつての対比として用いられている気がする。麦くん絹ちゃんが、焼きそばパンを食べながら土手を歩いている、川沿いの部屋を借りてDIYをしている、コーヒーを飲みながら調布駅から自宅までの30分を話ながら歩いている…温度感を感じる「今ここ」の演出がみずみずしかった。
 一方、別れて偶然再会した二人が”かつて”を振り返る時は、 「きのこ帝国が活動停止したこと、今村夏子が芥川賞を取ったこと、どう思ったかな。」とか、二人の周辺で起こっていたことでしか記憶を辿れない。
そんな対比が『茄子の輝き』と花恋のなかでリンクしている気がした。
 でも、「あの時、こんなことしたな。幸せだったな。」と、かつての情景に想いを馳せるのは両作品とも同じだなとも思った。 劇的な、いいことが起きなくても、記憶の中で、心の中で、ふと噛み締められる程の幸せな”かつて”があるって素敵なことだなと思う。  

■【おまけ】喫茶店「四月」のモデルは多分、高田馬場にある喫茶「ロマン」

こちらは番外編ですが、 作中の、「鶴上さんと神田川沿いの居酒屋のランチ営業でお昼を食べて、駅の方に向かう途中のビルの二階にある古い喫茶店に入る。…」のモデルになった喫茶店はおそらく高田馬場にある「喫茶ロマン」なので、是非行ってみてください。読書してる人が沢山いて居心地最高ですので。



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