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【詩】リフトマン

リフトマン*

セキュリティーの行き届いた
ムンバイの自宅フラット**で  
リフトマンの青年は
乗り込んで来る住人の姿を見るとすぐさま
住むフロアのボタンをさらりと押す
全住人の詳細情報が入っている頭脳PCの
記憶を呼び起こすスイッチが
瞬時に作動するかのように 

扉2枚分ほどが一面の箱の中で
正面ドアの左側にある
フロアの数字が並ぶパネルに向かって
しゃんと立ち
伏し目がちに背を向ける
普段着の住人を視線で煩わせたりしない
まるで肩幅の枠から出ないよう
見えない透明の仕切りがあるかの如く
頬のにきびに不釣り合いな
しっかり撫で付けられた髪は
ここが彼の職場だと主張する
住人の降り際は
目を逸らせたままの視界の隅で
満足そうに微笑む

ある蒸した午後の買い物帰り
スーパーの重たい袋を
両手に下げた私を見つけると
汗ばんだ荷物を私の手からさっと取り
13階の部屋の前まで運んでくれた
お礼を言うと
澄んだ瞳で私を真っ直ぐ見つめ
嬉しそうに首を小刻みに振った***

ディワリ祭で遊び疲れて帰った夜
彼は私に祭りのお祝いをひと言伝えた後
ひとつひとつ数字が昇っていく
ドア上部のパネル光を
上目遣いにきりっと見ながら
ポツリと囁くように呟いた
「ネパールに帰ります」

ずるい 
という思いが
私の真ん中で
驚きと共に渦巻いた
いつ どうして ネパール
いろいろな質問が
リフトの速度に飲み込まれ
あっという間に13階に着いた

あなたがここで目撃してきた
柔らかな数多の思い出をぜんぶ
いったいどうするの
何年も毎日会っていたのに
いつも急ぎ足の時間にすれ違うだけだった
何も言葉にできないでいる私に
彼は不思議な発音で 
はっきり言った
「サヨナラ」と

翌日からもう彼はいなくなった
新しいリフトマンは
すぐに住人の顔とフロアを覚えた
私は彼の名前さえ知らなかったことに
その時初めて気が付いた

*エレベーターボーイ
**マンション
***インド人の頷き


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