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くだらねぇから死のう、そしてくだらねぇ生へ

タラレバ話に僅かの希望を見出している。

そしてそれは非常に自己中心的で、他害性を持っている。

もし私が今、あの人の立ち位置だったらとか、あの時のオーディションに受かってれば、とか、夢見ることは犬でも出来る。そこから踏み出さねばと思うが、足掻けば足掻くほど沼に落ちてゆく感覚が襲う。言われてもいない他人の言葉に攻撃されている気がして自己認識がぐにゃぐにゃと歪み始める。こうして毎日1文字1文字1フレーズ1曲を書き連ね、歌い続けてゆくことが生きるということならばなんて歯がゆいのだろう。誰かと暮らし、誰かと恋をし、誰かと食事をし、そしてゆるやかに死んでゆくことが幸せなのか。必死にこの毎日を可視化し歌詞化し死なんとしている私の隣では友達の誕生日を写真つきでお祝いして切って貼った恋愛をしている人間が確実に存在していた。

時折言語が通じなくて困る。そして19年間培った私なりの価値観を、あたかも自分が世の中の正解であるかのように謳い諭す奴は相容れない。人が人なりに生きてゆくその限り、一瞬一瞬の最善を選択して生き抜いて来ている訳だから、そこへの他者の愚かな介入は蛇足である。

普通に生きたいと願い、暮らし、ここにいる。他者は塊ではなく個別個別の魂だと認識する度自己解離してもう立てなくなってしまうから学校には行きたくない。きみの普通と私の普通は普通に受容し、認め、もっともっと大きな括りの高い視点から分析されなければならない。

人の自由を許すことは誰かの自由を不自由化してしまうのかもしれない。その振れ幅をどれだけ小さく出来るかということこそがゆたかさに繋がるのではないだろうか。死んだ人間にインタビューできれば何百倍世界が広がるだろう、やはり生という付属品は人間1人に対して邪魔すぎる飾りだ。ただ確かなのは、生きていればこんな媒体越しにくだらねぇ生という行為を全うしている人間同士で擬似コミュニケーションがとれるという、少しばかりの娯楽に興じられるということだ。

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