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卒業式で子育て終了だけど、繋いだ手は離さない。

2人目の子ども、長男が大学院を卒業しました。浪人決定後の数ヵ月は脱け殻のような息子を見ては「ちゃんと生きて!」と願う毎日。1年間は大好きな桜も辛くて見れず、大好きな桜餅もピンクの物全てから目をそらしました。
長男と二人三脚で頑張った1年後に見た桜は素晴らしかったです。それから長男は一人暮らしを始め、親の仕事は金銭面や精神面のサポートになりました。


教育ママになった理由

大人になってから、学生時代にもっと勉強しておけばよかったな。って、思う人も多いのではないでしょうか?
私の時代は女子は短大進学がほとんどだったので、家計に余裕があり、頭も悪くない女子は何となく国文科、英文科、家政科、保育科等に進学して、事務職に就くというのが一般的でした。時代の流れで、途中で大学に編入する人もいました。
私は短大卒業して、地元に帰り、親のコネで就職した会社を1ヶ月で退職し、憧れのショップ店員(当時はハウスマヌカンなんて、オシャレな名前でした)をして、楽しく遊び呆ける毎日。
でもね、飽きたんです、その生活に。

ある日、先輩から「何で英語できるのに英語の仕事しないの?」と聞かれ
「え?私、できないですよ」と答えると
「英文科出たんだから、私よりできるじゃん!」

運命がその日に変わりました。
じゃあ、英語の専門学校に行こう!

で、本当に受験して専門学校生になりました入学した以上は、主席で卒業しようと心に決めて、めっちゃ勉強しました。

頑張った甲斐があり、大手英会話スクールの講師になれました。
ショップ店員になったことを嘆いていた父は
「ずっと憧れてた『先生のお父さん』になれた」と大喜び。
その後マネージメントスタッフに昇進して、お金をたくさん稼ぎ、高価な洋服を取っ替え引っ替え着る娘を見る度に母は「ステキー」と大喜び。
「英語が話せる!」と、兄からは尊敬の眼差し。

やればできるじゃん!あやめ雪見橋!

でもね、就きたい仕事によっては大卒必須だったりするので、2つの大学を転学しながら長い時間をかけて通信で学士を取りました。

反省しました。学生時代から勉強しておけば、勉強方法とか、誰かに教えてもらっていいたら、違う道もあったな。

自分に子どもができたら、小さい頃から学びの楽しさやその方法を教えてあげようと考えるようになりました。

私の祖母が私にしてくれたこと

私の両親は共働きで、父は単身赴任の期間が長く、母は夜勤のある仕事だったので、祖母は多くの時間を兄と私のために使ってくれました。

ばあちゃんのご飯もおはぎも、全部美味しかったけど、何しろ明治生まれの強い女。新聞を跨いだだけで、足を叩かれました。

毎日の国語の音読も聞いてくれて、勉強していると
「がんばれ、がんばれ!誰のためでもない、我が身のためだ!」と、励ましてくれました。
ばあちゃんは、80歳を過ぎても虫眼鏡を持って新聞や小説を読んでいました。それを見ていたせいか、私は今も昔も活字が大好きです。

私の母が私にしてくれたこと

母は自分の興味のあること、興味のある場所に連れていってくれました。もちろん、私が喜ぶだろうと考えて。

美術館や河原での石拾い、七宝焼の体験、図書館、お花見、デパートのお買い物、呉服屋さん、親戚を含めた色々な人の家など。

大人の付き合いで退屈だった時もありましたが、楽しかったです。

小学校の時に年に1度「漢字コンクール」と「計算コンクール」があって、90点以上だと賞状がもらえました。当時は青焼きというコピーしかなくて(ブループリントかなあ?)、母は学校から持ち帰る練習プリントを手書きで写し原本を作り、会社でたくさんコピーして、全部採点してくれました。たくさんすぎて、嫌になるほど(笑)
算数プリントの暗算パートは祖母と母が問題を読み上げてくれました。本当にめんどくさかったです(笑)
兄の頃からあるコンクールで、兄妹で計12年間頑張ってくれたのだと思います。その結果、6年間全て賞状をもらい、漢字も計算も得意になりました。

仕事で疲れて、色々な場所でいきなり昼寝をする母でした。短気で怒りっぽいところもありました。でも、私を連れ回して楽しそうにしていたのも事実です。

私の父が私にしてくれたこと

色々なことを話しました。主に政治のことでしたが。
いきなりお金をくれたりもしました。
初海外旅行には私を通訳に連れていく代わりに、旅費を払い、おねだりの指輪を買ってくれました。

短大を辞めて大学を再受験したいと言った時に「短大卒業する代わりに、ヨーロッパの研修旅行に行っておいで」と提案してくれました。優柔不断な私の気持ちを見抜いてましたね。そして、一人暮らしだったので大学に行くことで、激安ヨーロッパ研修旅行以上に教育費等がかかりますし。
父には敵いません。
教養があり、一生懸命に働いてくれた父を尊敬しています。

私が子どもたちにしてあげたこと

たくさんの本物を見せました。美術館、科学館、自然。
時に怒りながら、小学校までは公文に通わせました。Z会や中学入試準備用の問題集も一緒に解きました。
スイミングも通わせました。体操教室とか、お絵かき教室とか。
カラオケはよく行きました。ピアノも習わせました。
愛知万博に何度も行きました。私が住んでいた、富山、金沢、京都にはしょっちゅう足を運びました。私が恐竜好きなので、福井の恐竜博物館にも。映画好きなので、USJ。スペインが好きなので、パルケ・エスパーニャ。

自分の好きなこと、好きな場所に子どもたちを連れ回しました!
たくさん話して、笑って、遊びました。

勉強は小学校まで見ました。勉強の仕方も教えたので、あとは自分でやってね。通信や塾に行きたければ、自己申告してねって。

母の生きざまを見せる

専業主婦時代を含め、やりたい仕事があれば勉強して転職する私の姿。仕事でボロボロになる姿。情けない姿も楽しんでいる姿も全部見せてきました。

誤解があるといけないので、記しておきますね。私が主役で書いていますが、父(夫)もいます。父の気持ちは父にしか分からないので、省略します。

トップの写真の答え合わせ

サンドウィッチ、美味しそうでしょ?
長男の学位授与式が終了するまでの待ち時間に、夫と珈琲をいただきに行きました。サンドウィッチは2人で1つオーダー。仲良しです!

サンドウィッチが置かれたテーブルの木目、お皿、珈琲カップでカフェを当てた方。素晴らしいです!

最後の宴

長男が行きたかったレストランは最後まで予約が取れず、残念だったけど、予約が取れた和食レストランで、美味しいお料理をいただきました。

食事の後、長男は就職先の大阪のマンションへ向かいました。
長女は同じ3月に結婚のため東京に引っ越しました。
この日をもって、私の子育ては終了しました。

私は子どもたちのことを信頼しています。しかし、子育てが終わっても、私は子どもたちのことをずっと考えながら生きていきます。
私は天国にいる両親や祖母の暖かさを忘れないし、今でも励まされ見守ってもらっている気がします。

同じように、自立した子どもたちを見守っていきたいと思います。

キッチンペーパーの芯(1本)を2cm幅でカットし、ハート型に折ったものを両面テープで貼って作りました。仕事で使う廃材利用のクラフトです。
春ですね!!

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