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1冊の雑誌と一緒に走る

2時間しか寝ていないからこそ、ハイになってくる午前9時30分。
仕事を終えた私は、自宅と反対方面に行く電車に乗ってぼんやりと大根のことを考えていた。
そろそろだよね、そろそろ。

今年の2月に三浦海岸を訪れたときには、シワシワのくたびれた大根がたったの2列、干されているところしか見ることができなかった。

2月の三浦海岸の大根たち

私はある雑誌を読んで、いつか三浦海岸にずらりと並ぶ大根たちを見に行こうと考えていた。それは『モノノメ』という雑誌の2号だ。
表紙の大根と海が美しく、大根と海と空だけなのに、この神奈川県三浦市という土地の個性がしっかりと伝わってきた。
高校生のときに、何度か三浦海岸に行ったことはあるのだけれど、この雑誌に登場する三浦はその時の印象とは全く違っていた。

私は大人になり、夏以外に海水浴目的ではなく海に行くようになった。
そして、『モノノメ』という雑誌に出会った。

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この雑誌の「走るひとたち」という記事の中で、こんなことが書かれている。

比較するなら湘南につきまとうテーマパークのようないやらしさがなく、三浦は土地そのものに触れることのできる場所だと僕は感じている。
〈中略〉
日帰りで遊べる、少しだけ離れた身近な世界の果て。そんな場所を、いつでも行けるところに見つけたことは、僕のちょっとした財産だと思っている。
モノノメ#2  「走る人たち」より

この言葉の意味を、今年の春に2度三浦を走ったことで充分に理解することができた。

私もすっかり三浦という土地の魅力にハマってしまって、またいつかこの地を訪れたいと考えていた。だから今回、大根が見たいという理由をつけて、本当ならば家に帰って眠るはずの時間を使って三浦海岸へと向かったのだ。

****

山手線で品川駅に行き、京急線に乗り換えた。近いようでちょっと遠い三浦海岸駅まではこの電車に揺られていれば1時間30分くらいで辿り着く。
月曜日の午前中ということもあり、あまり人は乗っていない。ご年配のグループが楽しそうにおしゃべりをしていた。私は電車の中吊り広告を見ながら、この人たちは三崎のマグロを食べに行くのだろうなと想像していた。マグロを食べる気は一切なかったのだけれど、マグロでも良いかな。なんて、マグロに対してとても偉そうなことを考えてしまった。
仮眠をとるのに相応しい1時間30分という時間に全く寝ることもなく、私はひたすらスマホでお蕎麦屋さんを検索し続けていた。この日の私の目的は、三浦を走り、ご褒美に美味しいお蕎麦を食べること。
真夜中に突然三浦に行こうと決めてから朝仕事が終わるまで、私はそのことばかり考えて過ごしていた。

途中の駅でどんどん人が降りていき、ガランとした電車が三浦海岸駅に到着した。
そもそも人があまり乗っていないわけだし降りる人も少なくて、この日の気温は18度くらいあったはずなのに、ホームに降りると少しひんやりとした。まぁでもこれから走るのだから問題はない。むしろ、少し寒いくらいの方が走るには気持ちが良いのだ。
改札を出たら着ていたセーターを脱ぎ、背負っているリュックにしまうと、ジーパンとTシャツという格好のまま私は海岸に向かって走り出した。実は今日、ランニングウエアは持ってきていない。なぜなら仕事中に突然三浦を走りに行こうと思い立ったからだ。
私のようにゆるランナーを何年かやっていると、別に特別な用意がなくてもランニングをすることができるようになる。
常にランニングシューズで生活しているし、大抵トレランにも使えるような大きくて身体にフィットしたリュックを背負っているし、普段からアクセサリーは身につけないし綺麗な格好もしていない。
だから、走りたいなと思った時に、大抵の場合は走ることができる。
どこでも走れるというのは私のちょっとした特技とも言えるかもしれない。あまり羨ましがられないとは思うけれど。

ジーパンとTシャツのまま海を目指す。ゆっくりと走っていると5分もしないうちに海岸が見えてくる。
「海だ。」この瞬間は何度味わってもドキドキする。海はただそこに存在するだけで、特別な気持ちにさせてくれるのだ。
辺りを見渡すと、砂浜にずらりと並ぶ白い綺麗な大根たちが目に飛び込んできた。
『モノノメ』の表紙で見た写真と全く同じだ。近づくと海水の匂いと一緒に大根の匂いが風に乗ってやってくる。


三浦海岸では、冬になるとこんな風にして海岸でたくあん用の大根を干しているそうだ。太陽の光をいっぱい浴びた大根は、しばらくすると甘みがしっかりと閉じ込められたたくあんになる。私が前回見た大根はもうシワシワで、たくあんの形をしたものだった。
目の前に並ぶ立派な大根たちがあんな風に変化していくんだなぁ。と2月の大根を思い出しながら、目の前にある大根に美味しくなぁれと呪文を唱えてお別れをする。
さて、ここから約10キロのランニングのスタートだ。

今回走るコースは決まっていた。それは、前回三浦海岸に来たときに走る仲間たちと一緒に走ったコースだ。このコースを作ったNさんも同じ雑誌『モノノメ』の2号を読んでいて、掲載されている写真を見ながら行ってみたいなと思った場所をコースに組み込んでいった。そしてそこに、2回連続で中止となった三浦国際市民マラソンのコースを、本来なら参加する予定だった私たちのために、コンパクトに味わえるような工夫をしてくれた。海岸だけでなく坂道や丘の上なども走り、この土地の特徴を身体全部で味わえる約10キロのコースだ。

午前11時30分、お腹がペコペコなまま私は走り出した。海岸沿いを走ると潮の香りがする。夏の海のようなべたつきがなくて、さっぱりとした潮の混ざった風が心地よい。
波の音は聞こえなくて、トンビの鳴く声のほうが大きくて、トンビにつられて空を見上げる。秋とも冬とも言えるような、言えないような、空だった。
数えるほどしか人のいない海岸を横目に、走り続ける。

海沿いをしばらく走ると、少し急な坂道になる。平坦な道とは同じペースで走れないため、お水を飲みながら歩くことにした。すると手に持っていたペットボトルがコロンと落ちて坂を転がっていってしまった。慌ててペットボトルを追いかけて拾い、顔を上げると坂の上から見える海がとても良い感じで見惚れてしまった。真っ直ぐ走っていると振り返ることなんてないから、途中で振り返ってみることも大事だなぁって思った。

坂を登りきると大きな畑が広がっている。思わず声を上げたくなるほど美しくて、ランニングで乱れた呼吸を整えながら深呼吸をする。

吸い込んだときにツンと鼻にくる馬の糞のような匂いがまたたまらない。熊本に住んでいたときに、阿蘇に遊びに行くと車の窓を閉めていても充満してきた匂いだ。同じくさい匂いでも、都会の生ゴミの臭さとは違う。ここから僕たちは肥料になるという強い意志が感じられる匂いだ。全く不快ではない。

広がった畑先にも海が見える。この景色を初めて見たときに、なんだか特別なものを見せてもらったような気持ちになったのを思い出した。ここで暮らす人たちが毎日見ている景色は、私にとって非日常だ。だけどこうやって走り、土地の中に潜り込んだことで、非日常が日常に傾きはじめる。自分の世界が広がっているような高揚感で、ムズムズゾワゾワしてくる。

干してある農業用のズボンや塀に立てかけてあるサーフボード。カラス避けの黒いビニール袋がなびく庭の小さな畑。私はここで暮らす人たちのことを想像しながら走り続けた。
人とすれ違うことも無かったのだけれど、ここに住む人たちのぬくもりを感じ取れた。
そして、日頃都会で感じる煩わしさや淋しさを感じることは全くなかった。すごく良い時間だった。

****

ランニングを終え、あっという間に2時間近く経っていた。4時半に寝起きで食べた柿もすっかり消化されて、お腹の中はスッカスカだ。
10キロ走り、600キロカロリーくらい消費している。仕事とランニングのご褒美に美味しいものを食べに行く!
行きの電車で検索した候補のお店の中から、今の気分にぴったりのお蕎麦屋さんに行くことに決めた。
そのお店は三浦海岸駅の隣の津久井浜駅にある。
人生で多分1度も降りることのなかったはずの駅に降りた。

こうやって行くはずのなかった駅で降りることになるのも、自分が食いしん坊で良かったと思える理由の一つだ。
食べたいものを見つけ、新しい駅と出会う。
狙っているお蕎麦屋さんは駅から徒歩3分のところにあった。
まだオープンして数年の新しいお蕎麦屋さんのようだ。

私は立ち食い蕎麦屋さんのコロッケ蕎麦が大好きなのだけれど、手打ちそばも大好きだ。そして、天麩羅も大好きだ。
蕎麦にも天麩羅にもこだわっているというこちらのお店で、更科蕎麦の天盛をいただくことにした。

味がしっかりとした透き通るような蕎麦が美味しいのはもちろん、天麩羅のクオリティがとても高くて感激した。特にビーツととうもろこしは天麩羅にするのに相性が良すぎてびっくりした。
(先に食べてしまったので画像にはありません。ごめんなさい。)
10種類近くある天麩羅はさすがに食べきれなかった。1人で自由に過ごす時間が好きなのだけれど、こんなときは誰かとシェアして食べれたら良かったのにと思ってしまう。
しかし、お店はこの量の天麩羅を食べきれない人が多いということをそもそも想定しているようで、「食べきれない場合は持ち帰れますからね」と言ってくれた。残った天麩羅を入れる容器と一緒に自家製の天つゆを渡してくれて、天丼にして食べることをオススメされた。リュックの中は天麩羅の匂いでいっぱいだったけれど、お店の人の気遣いや、帰ったあとも今日のことを思い出しながら食べられる天丼のことを思うとすごく幸せな気持ちになった。
天麩羅の匂いに誘われて、帰りの電車は夢の中。
覚えていないけれど、良い夢が見れていたんだろうな。きっと。

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1冊の雑誌が人を変えることがある。
ある記事を読んで影響を受けたり、感銘を受けたりすることもあるし、こうやって私のように人を行動させる力ももっている。
最近では雑誌というものを買うこともすっかり無くなってしまった。だけど、自分の目的のものだけを見て読むを繰り返し続けるのではなくて、こんな風に雑誌の中で偶然出会った景色や言葉で、自分が変わっていく体験はとっても価値のあることだなと感じた。
多分私は『モノノメ』という雑誌に出会っていなければ、突然大根を見に、走りに、三浦海岸へ行くことも無かったし、知らない駅で降りて天麩羅蕎麦を食べることもなかった。私の仲間が作った最高のランニングコースもそうだ。

年末年始、何をしようかなと思っている人がいたら、久しぶりに雑誌を手に取ってみることをオススメしたい。
大きくではなくても、じんわりと自分を変えてくれる何かに、出会えるかもしれない。
私の今のイチオシの雑誌はもちろん『モノノメ』だ。

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