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乳がんになった私 #37「闘病という言葉は遣わない」

乳がんになってみて、たくさんの仲間がいることを知った私。

そして、乳がんになってみて思ったことがある。

私は “闘病” という言葉に違和感がある。

ただの言葉だと言ってしまえばそれまでだが、病と闘う…私は、闘っているつもりがないのだ。

今まで私は、音楽の中でも、発言でも、闘い (戦い) について度々発信してきたように思う。歌詞にも「勝ちたいんだ自分に」とか「私にしかないものが武器になるはずだ」とか、闘う気満々。日々の中で自分と闘わねばと思う場面や、負けたくないと強く思う出来事はもちろんある。(スポーツなんて特にそうだ)

だが、病気に対しては違う。なぜなら、がん細胞も私の身体の一部。私の細胞に異変が生じてしまっただけのことなのだ。いきなりどっかの悪人から “悪いもの” を身体に入れられたわけではない。全て自分の身体の中で起こったこと。

がん細胞が憎いと思ったことは、乳がんが発覚してから一度もない。

だから私は、自分の身体に対して、今までもっと気にかけてあげなくてごめんね、と思ったし、たくさん無理させてきたりもしただろうな、ありがとうね、と、謝罪や感謝の気持ちが溢れた。

やはりそれは、闘志ではないのだ。

自分の身体を大切にして、治そうとしている。

もちろんこれは人それぞれの感覚、捉え方の話なので、あくまで私の気持ち。

他の罹患者の方が、闘っているのだとしたら私は心から応援するし、友人に「彩乃なら、がんに勝てるよ!」と言ってもらえるのは純粋にとても嬉しいし、メディアで “闘病中” と表現されることも気にはしない。言葉として間違っているわけではないから。

ただ、私の中では、闘病中という言葉を遣わず、治療中と言うようにしているだけの話。


それと同じように、“がんサバイバー” という言葉も私は遣わずにいる。

この言葉も、様々な場面で広く正式に遣われているのだが、私は、私の感覚として今のところ遣わないだけなのだ。今後、言葉の持つ意味や遣われ方が自分の中でしっくりときたら、遣っていくかもしれない。

(そしてもしかしたら、病気の進行具合によっては、がんが憎い、やっつけたいと言う気持ちに自然となることだってあるかもしれない。それはその時の自分の感覚次第。)


乳がんになってから、こうやってnoteに言葉を綴るようになり、言葉では表現しきれない感情や瞬間がたくさんあるなあと思っている。一言に “怖い” と言っても、怖さにも種類があるし、度合いもある。なんとかその時の状況や心情に適した表現を自分なりに書いてはいるが、私が味わった私だけのこの感覚を、きっと丸ごと人に伝えることなんて出来ないんだ。

同時に、私も誰かの気持ちと全く同じになんてなれない。それがどんなに近い存在でもだ。

だからこそ人は、言葉やジェスチャー、絵や音楽、様々な方法や手段で、試行錯誤しながら自己を表現するのだなあと思う。

そして、“表現しない” ことさえも、それがその人の選んだ表現なのだと思う。

ちなみに、小説家の西加奈子さんも「くもをさがす」の中で  “闘病” という言葉を使うのをやめていると書いてあった。それを読んだ時に私は、同じ感覚だ!と思い、勝手に嬉しくなった。

もう一度言うが、これはあくまで私の感覚。みんなそれぞれが、自分の感覚や気持ちを大切に、心を大切に、そして身体を大切に生きてほしい。

(#38へ続く)
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