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らいてうさんと会う✧♡

 女性たちの朗読会に参加した時に、元、同僚のらいてうさんに会った。

 らいてうさんというのはあだ名である。

 八戸市で一番の進学校に転勤した時に出会った家庭科の先生が、らいてうさんであった。青森高校出身のらいてうさんには、なんというか、女性でありながら、大事な場面でぎりっと発言する勇気があり、あんなふうな女性の先輩になりたいと思ったけれど、自分はなかなかそこまで到達しなかった。
 私自身は、女性の先陣を切れなかった小物である。

 らいてうさんは、尊敬され、その面白い人柄が、皆から一目置かれ、愛されていた。また、飲み会にいると、とても楽しい人なのである。
 私が丁度彼女に出会った時は、彼女が60歳で退職するという最後の1年の時であった。

 らいてうさんを囲んでみんなで遊んだ企画の、楽しくて面白かったこと!

 忘年会で女子職員が踊る計画、学年の飲み会のイベント、それから、女子職員有志で企画した「赤紫式部の会」。

 どれも楽しかったが、私は特に「赤紫式部の会」が面白かった。

 紫式部を愛する国語教師が2人所属するその会は、皆で自分の源氏名をつけたり、源氏物語の講義をスコシ受けるという面白い飲み会を企画し、それはそれは、知的でよかった。
 この話は別記事で、いつか詳しく語ってみたい。

 らいてうさんが、なぜ、らいてうというあだ名かと言えば、その時の我々女性職員の最も年上で、リーダーとして牽引していくその姿が平塚らいてうっぽいから。
 赤紫式部の会のらいてうさんの自分でつけた源氏名は「破天荒」( ´艸`)。

 らいてうさんが退職した後もlineで時々連絡をとってきたが、ある時かららいてうさんのlineに全く既読がつかなくなり、機種変更なのか、または、最悪の場合、この世を去ったとか?とか要らぬ心配をしている矢先で再会した。去年、女性たちの朗読会に、らいてうさんの姿を認めたのである。

 きゃああああ~💖らいてうさん!

 私は休み時間に駆け寄った。
 やはり、ちょっと気になる会には、多少、億劫でも参加しておくことに意義がある。詩の朗読会も感動する素敵な会だったし、らいてうさんとの再会にも感激した。人間、行動すると何か起こるのである。

生きるとは行動することである。ただ呼吸することではない。

平塚らいてう

 スマホの機種変更により、そのような事態になった模様。
 早速lineを交換したかったが、私はスマホではなく、らいてうさんも電子機器には疎く、全く、出来なかった大笑(←誰か助けて!)
 互いの電話番号は知っているから、SMSメッセージで情報を交換して、また、会おうという話で別れた。それが12月。その後、ケータイ不携帯の私がらいてうさんのメッセージに気付いたのは一週間後と、埒が明かない。
 実際、会えたのは、1月26日(金)13時半であった。
 会って、lineをなんとかしようとしたけど、やはりできない( ´艸`)。
 ま、仕方が無い。パソコンのメルアドを交換して帰ってきた。

 やはり、らいてうさんとは、いろんな話ができる。
 らいてうさんも、こういう話って、出来る人とできない人が居るよねと、2人でスタバで、話をずっとしていた。

 らいてうさんは、私の10歳ぐらい年上だったので、すでに70歳になられたようだ。その中で印象に残った話。

 数年前、私が勤めていた高校で、非常勤講師の家庭科の先生の旦那さんが亡くなった。そしてその先生はそのまま家庭科の教師を退職した。
 小さなお子さんを抱えて、苦渋の決断だったと思う。
 しかし、正直言って、大変だったのは学校側も同じだった。
 授業の少ない教師が順番に家庭科の自習監督をした。
 それは9月から始まったのだが、テスト前はまだいい。
 テストがあるから頑張りなさいと言える。しかし、テストが終わったら、何と言って、自習監督をする?

 正直、これは地獄である。

 生徒が勉強に飽いていても、自習監督をしているこちらも、最もだと思う。君らがやる気なくてぐだぐだなのは、痛いほど、よくわかるよ。
 しかも、後期は、楽しい調理実習が集中していた授業のはずだった。
 そこが延々と、教科書とプリントの自習なのだから。

 教務の先生方が、パウンドケーキのスポンジを買って、調理実習を買って出た。よくわからないので、空いている教員みんなで手伝って監督した。
 音楽の先生が、卒業式も近いから、私、音楽をやるわ!と言って、全クラスで何時間か音楽をやった。

 画期的だ!

 その間、我々はあの地獄のような自習監督から救われた。
 その音楽の先生を見ながら、美術と家庭科が交差した分野で、私も何かできないか考えた。
 服装のところで、色の組み合わせを指導できる。
 美術的家庭科ということで、色のことを、家庭科として勉強させよう!
 私も、美術的家庭科を数時間、受け持った。
 
 そんな時に、らいてうさんのことを思い出し、家庭科を途中で受け持ってくれないか?と電話をかけて相談した。
 それは9月とか10月であったと思う。
 らいてうさんは退職後は、全く自由人であったらしく、返事は、やはり、今更、高校教師はやる気が無いようであった。

 去年、退職したばかりの私にもいくつか、美術教師を捜しているという情報は来たのだが、全く、勤める気はない。
 しかも、岩手県とか、十和田市とか、遠い場所の話ばかりだ。
 正直言って、そんなところに勤めるよりは、近所の、去年勤めていた場所に、行った方がマシだ。私は今の1年は何もやる気は無い。

 数度、らいてうさんに電話をかけて、らいてうさんが折れて、2月からなら、行ってもイイケド?と言い始めた。
 12月とか1月に重要な旅行の予定があったらしい。
 そして、らいてうさんの承諾の一番の原因は、生徒たちが困っているということだった。
 
あなたは私の弱点を突くのがうまいのだとらいてうさんは言う。

 2月、らいてうさんは、我々職員にとって、救世主の如く、迎えられ、家庭科の授業は平常に戻った。
 その後の3月に私はすぐ転勤して、八戸市に戻ってきたが、らいてうさんは校長から頼まれて、その後3年、その高校で働いたそうだ。

 その高校の生徒はホントラッキーだったな、と私は思う。

 そんな大切なことのお礼もしないまま、lineでもつながらなくなり、そして、スタバでの今日だった。

 当時のらいてうさんの言葉も可笑しかった。
「あのね、貴方の言うシゴトを引き受けて面白いことがあったの」
と、彼女は言う。退職して、自分の周りに老若男女のうちの、若い男だけが居なかったと彼女は言う。ほかは孫とかで、出会う機会があった。
 しかも、その学校は工業高校で、若い男だけが、大勢、わんさかいる学校なのであった。

 その時、らいてうさんは65歳。自由人になってから5年は経っていた。
 その時、時間給で働いて得るお金は、本当に労働の対価という気がして、有難く頂いていたのだそうだ。月によって授業時数は違うから、月2~3万円の時もあれば月10万円ぐらいの時もあったと言う。

 その話を聞いて、私はもう教師をやる気はないが、65歳になって、うっかり月10万円ぐらいもらえたら嬉しいかも、と想像した。

 今は、そんな気は全くゼロだから、らいてうさんの話を聞けてよかった。

 果たして、自分は後で、そんな気になるかしら?

 条件は65歳からで、金髪でもよければの話だ✧♡
 


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