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Fabulous(ファビュラス)でも暗澹でもない私のフェミニズム

Sex and the City(以下SATC)が昔から好きだった。
成長して観ると、「女性が求めるゲイ像」が投影されたキャラクターや、
「結婚して幸せな女性」と「独身で自立した女性」の二項対立に描かれる女性像など、ジェンダー学的に色々疑問な部分はあるのだけど、
今でもやっぱり好きなドラマ。

 SATCにはよく「ファビュラス」や「ゴージャス」と
女性同士で褒め合うシーンが出てくる。

出てくる衣装は全部キラキラ輝いていて素敵だし、
それを着てマンハッタンを闊歩する女性たちは私の憧れだった。
自分もこうなりたいと思っていた。

最近、インスタなどSNSですごくお洒落で綺麗な20代前半のフェミニストをよく見かけるようになった。若い子がフェミニストをどんどん名乗ることも、言葉自体がファッション性を持って受け入れられていることも、数十年前には考えられない、本当に素晴らしいことである。


SATCとはまた違うけれど、彼女たちも自分を表現し、美しく、フェミニズムに対するポジティブな印象を発信し、最初の頃は私もそんな風になれたらいいな、と思っていた。そういう風にしないと、フェミニズムの門戸を狭めてしまうのではないか、と考えてもいた。

逆に、私のフェミニズムには怒りや暗澹とした気持ちもない。
社会の中で女性が受けてきた扱いを学ぶ時は、怒りや無念さを拭えないけれど、私のフェミニズムのモチベーションは、そこをガラリと変えたいというよりも、女性として自分に降ってきた状況に困惑し、混乱し、嘆き、(そうは言っても)怒り、疑問に思い、不甲斐なく感じ、、そういう、しっちゃかめっちゃかになった人の心を、静かに手解きするようなフェミニズムでありたいと望んでいる。

ジェンダー関連で発信する人間は(特に私のようにスタイルも何も確立されていない者は)、イメージづくりや発信のあり方に悩むと思う。私もその1人で、これからもずっとうじうじ悩むだろう。静かに手解きするようなフェミニズムでも、世の中にアピールする時は、フェミニズムにもたれたネガティブなイメージを払拭するために、キラキラしていた方が良いのではないか、と考えていた。

でも最近、キラキラとした世界はまた自分の居心地の良い世界ではないのかな、と受け入れるようになってきた。

昔から大人数でワイワイすることも、流行の服も、そういうテンポの速いものについていけない代わりに、本を読む時間や、少人数でじっくり議論する時間が好きだった。

私のフェミニズムも、そんなフェミニズムで良いのではないか、と思い始めている。

ポップで綺麗な風貌は自分には不向きな代わりに、
クラシックな服装や自分に合うメイクをじっくり考えることは好き。

お洒落な媒体をデザインすることは不向きな代わりに
じっくり文字を起こしたり、雑誌や新聞の真似事をするのは好き。

SNSで自分の見た目を晒すことは落ち着かない代わりに
イベントで人と直接話すのは好き。

アクセサリーを沢山つけるのは落ち着かないけど
少し良い値段がしても、良いものを一つ着けるのが好き。

27歳になって、私はキラキラの住人ではないけれど
もう少しゆっくりとした世界の住人なんだろうと、少し分かるようになってきた。キラキラの世界が沢山の人を魅了し、フェミニズムの門戸を広げるように、私の静かな世界もまた、人々の混沌とした心の中を言語化し、糸を紡ぐような役割を担っているのだろう思う。

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(それでもSATCのキラキラは「憧れ」や「綺麗でいたい」というモチベーションを上げてくれ、背筋を伸ばして頑張っていけ、と背中を叩いてくれる)


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