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アンパンマンの不完全な正義に愛を込めて

 パンの芳ばしい小麦の風味と、ほんのりとしたしょっぱさと、甘味が好きだ。特にハード系が大好きで、ごろりとしたチーズにとろりとシロップがかかっていたりすると、最高に幸せになれる。ベーグルも良い。弾力の強い生地に、スモークサーモンやシャキッとしたレタス、酸味のある人参のラペがはさまっているサンドは、ボリュームも見た目も申し分ない。

 ところが、まだ幼い我が家の子どもは、甘いソフトなパンが好きだ。特に、時おりあちこちのパン屋さんで見かける「アンパンマン」の形をしたパン。大抵、アンパンマンを模しているはずなのにチョコレートクリームがたっぷりと包まれている。
「そんなに食べられないでしょ。ちょっとちょうだいよ」
 食べ過ぎを警戒したわたしがそう言っても、「だーめ」の一点張り。顔を形作る鼻からがぶりと食べていく。しつこく「ちょーだいよー」と言い続けると、ほんの指先ほどの大きさにちぎって「はい、はんぶんこ」と渡してくれる。随分と不公平な「はんぶんこ」だ。チョコレート部分などかけらもついてこない。

 ただ、結局は途中でお腹がいっぱいになってか、それともチョコレートの甘味に飽きてか、「はい、はんぶんこ」と自分から本当に半分にちぎって渡してきてくれる。受け取ったパンにはもうアンパンマンの面影もないが、とっぷりと詰まったチョコレートクリームがなんとも濃く、甘く、頭に響いてくる。

「アンパンマンのアンパンチが、子どもに暴力を真似させるのではないか」ということが話題になっている。

 正直な話、それは充分にあり得る話だ。と言うより、我が家では現実として起こっている。「あんぱーんち」「あんきっくー」と言いながら、二歳の子がわたしたち親や、年下の弟を叩いたり、蹴ったりすることがある。
 子がある程度、いろいろなことを理解するようになってきてから、我が家では過度に暴力的な映画鑑賞(と言っても、要はコンバット系やアクション系のものになるわけだが)は避けるようにしてきた。元々、アクション系を好んで見ていたわたしはとても不満だったが、わたしよりも更にそういう傾向の作品を愛している主人から言い出したので、仕方ない。以来、家族で観ている作品はキッズ向けか爽やかな青春ものがメインだ。

 それなのに。子は暴力をふるうようになった。「せっかく我慢していたのに、まさかアンパンマンがきっかけになるなんて!」と正直ショックだ。

 ところで、わたしはアンパンマンのキャラクターの中で、バイキンマンが大好きだ。誰もが知っているヒールなのに、どこか憎めない、間が抜けていて、ちょっとお調子者で、悪になりきれない、そんなキャラクターイメージだ。特に、育児系のスペシャルストーリーではその傾向が強く、そのせいか大人はむしろアンパンマンを、「暴力で解決するヒーロー」だなんて、ちょっと斜めから見たりもする。

 ところが、改めて通常のアンパンマンを観るようになって、わたしはちょっと驚いてしまった。記憶のなかのイメージ以上に、バイキンマンはワガママで、どうでもいい理由で弱者を傷つけ、卑劣な行動をするものだから、「これはちょっと酷いだろバイキンマン」と擁護ができなくなってしまった。
 そこに向かっていくアンパンマンは「止めるんだバイキンマン!」と声をかけ、バイキンマンはお決まりの台詞「出たなおじゃまむし!」で応じる。全然話にならない。結局、例の「アンパーンチ!」で「バイバイキーン」だ。

 じゃあ結局、どうしようもなく悪者なバイキンマンが悪いんじゃん、というかと言うと、ちょっとそれも違う。
 アンパンマンの豊富なキャラクターたちの中には、マダム・ナンというキャラクターがいる。料理を作り、ナンを人々にふるまい、常にニコニコと穏やかで楽しそうな彼女は、世間知らずで他人を疑うことを知らない。彼女はバイキンマンを「バイキンマンさん」と呼び、「バイキンマンさんは優しい!」と信じて疑わない。バイキンマンはマダム・ナンを「苦手」としつつ、彼女の料理を手伝い、なんだかんだで珍しく「アンパンチ」の出番がなく話が終わったりもする。彼女の圧倒的な善意の眼差しに、バイキンマンの悪意も負けてしまうのだ。

 これってどういうことかな、と。子と話を見終わったあとぼんやりと考えたりもした。もしかしたら、アンパンマンという存在は、わたしたちが思っていたよりも「不完全な」存在なのかもしれない。

 幼少の頃から、アンパンマンは間違うことなくヒーローとしてわたしたちの前で輝いていて、困っている人には自己犠牲を厭わず身体の一部を差し出し、悲鳴が上がれば助けるために文字通り飛んで行く。町の人々もいざというときはアンパンマンに助けを求め、アンパンマンも当然のようにそれに応じる。
 映画では、「人々を助けるために生まれたんだ」と自分を定義づけさえする、素晴らしいヒーロー。でも、もしかしたら。アンパンマンだって完全無欠の存在ではないのかもしれない。顔が欠けたり、頭が濡れたら力が出ないように、その正義の心だって完璧ではないのかもしれない。「アンパンチ」で敵をやっつける――それ以外の方法を、知らないのかもしれない。

 ただひとつ、言えることは。決してアンパンマンは、バイキンマン自体を憎んではいないということだ。
 先程挙げた映画のなかで、アンパンマンはバイキンマンに顔を差し出したり、バイキンマンの危ないところを身をていして救ったりしている。アンパンマンにとっては、普段敵対しているバイキンマンですら、救うべき対象である「困っている人」になりうるのだ。そしてバイキンマンはそのことに葛藤し、最後には「アンパンマンを倒すのはオレサマだ!」とアンパンマンを助けに向かいさえする。これもまた、アンパンマンの善意にバイキンマンの悪意が本当の意味で圧倒された話だ。
 これが何故ふだんかなわないのか――と言うと、それはやはり普段のバイキンマンが悪意を振り回し、誰かを困らせているからなのだろう。「困っている人」のためなら、暴力だって厭わないのがアンパンマンの今のところの、不完全(かもしれない)正義なのだ。

 結局、アンパンマンの魅力はこの不完全さにあるのかもしれない。アンパンマンが完成された存在だとしたら、あの世界を彩るたくさんの仲間たちの存在が必要なくなってしまう。アンパンマンが不完全だからこそ、その脇を固めるキャラクターたちが、力を出し合い、助け合い、ストーリーを豊かなものにしていくのだ。そしてその様から、子どもたちは物語に散りばめられた、たくさんのメッセージを学びとっていく。

 そして実際のところ、(それが最善かということはさておいて)悪に対して強い姿勢で臨むアンパンマンの姿というのは、観客である子どもたちに勇気を与えてくれる存在と成りうるのだろう。いざとなったら、悪いやつらから目で見て分かる形で守ってくれる存在がいるというのは、子どもたちにどれほどの安心を養ってくれるだろうか。アンパンマンの「アンパンチ」は理由なき暴力ではなく、あくまで子どもたちを含めた「誰かを守るための、理不尽な暴力に対する怒りの拳」なのだ。

 そして我が子を含めた、「アンパンチ」を真似する子どもたち。彼らが「アンパンチ」を繰り出すのは、いったいどんなときだろうか。全く理由なく、唐突に行うのだろうか。

 遊びの一環で――と言うのは、確かにあるのかもしれない。それなら、叩かれてしまった子をケアして、その気持ちを考えさせると同時に、もっと楽しい遊びへと誘ってあげるのが良いだろうか。

 なにかにイライラしたり、もやもやした気持ちを抱えているときかもしれない。それを上手く言葉にできず、「アンパンチ」という形で発散したいのかもしれない。
 だとしたら、本来の問題は「アンパンチ」をしてしまうこと以上に、原因となったイライラやもやもやが何処にあるか、ということだろう。「アンパンチ」はあくまで表面上にあらわれた不満の余波に過ぎない。おおもとの原因に向かい合い、次からはどのようにそれを表現したら良いか一緒に考えるのが、「アンパンマンを見せない」こと以上に、その子のためなのではないだろうか。

 「アンパンチを真似させたくないから、アンパンマンは見せない」――それも選択肢の一つで、逆に、アンパンマンは絶対に見せなければならないもの、というわけでもない。
 ただ個人的には、困っている人たちのために奮闘するアンパンマンからは学ぶことが多いと思うし、なにより子どもが純粋に楽しんでいるものを無理に取り上げたいとは思えない。笑って楽しむというのは、幼い子らにとってなによりの、成長のための栄養だろう。

 子が分けてくれた、不格好なアンパンマンのパン。そこに、不完全なアンパンマンそのものを見ているようで。それでも戦う彼だからこそ、きっとそのパンは勇気の味がするんだろうなんて、チョコレートクリームを口いっぱいに頬張る。

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