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作品の要素全ては作者の分身である

作品を作るってことは、その世界の神になるってことなんだ。

携帯も友達もいなかった、かつての通学路。
その時間、俺にとっては、頭の中でうごめいているキャラクター全員が俺の友達であり、俺そのものだった。

たまに、その世界にキャラクターの一人としてお邪魔するときもあった。
自分自身が作っている脳内作品のキャラクターとして、自分が作った空想のキャラクターたちに溶け込み、入り浸る・・・
ちょっと脳を集中さえさせれば、チケットも予約も何もいらない。
夢の世界は、いつだって自分の中にあった。
その神聖な行為は現実逃避という言葉では少し不適切に感じる。
俺にとっては、いつもの遊び場に向かっていくだけの行為であって、多くの子たちは友達のゲーム部屋であったのだろうが、自分はたまたま頭の中が遊び場だった、それだけのことなのだ。
かりそめの世界だろうが、その空間には確かな生命力があった。

あの時、自分は、どうやって下校していたのだろう。
夢の世界に入っているとき、まったく前は見えていなかった。
我に返った瞬間、自分はどうやってここまで無事に自転車を動かしてきたのかと目を見開く瞬間がいつも訪れる。
ついさっきまで、こっちの世界では何が起こっていて、何が今自分のすべきことなのか、それすら見失ってしまう幸せな瞬間もちょくちょく訪れる。

驚いたことに、誰から教わったわけでもないこの神聖な行為は母譲りなものだそうだ。
暇なとき、俺を自転車と共に車で学校まで送ってくれる優しいおじいちゃんが、車内で向こうの世界の友達と話す俺を見ていった。
「母親とまったく一緒やわ、(母親の名前)もずーっと独り言いよったで」と。
まったくどういう所で一子相伝してしまっているのだろう。
あの時のおじいちゃんにひとつ訂正するとするならば「独り言ではないよ、ちゃんといるんだ、ともだちがここに」というところだろうか(余韻)。
なんとなく母譲りになってしまった原因は分かる。
俺の家のクソ長い通学路のせいだ。
ヒマこの上ない自転車を走らせるだけの時間、何千回とみる同じ通学路の中、自分を保つにはこれくらいしか方法がなかったのではあるまいか。
自分は今、会社まで歩いて5分とかからない場所に住んでいる。
その5分で夢の世界へ入り込めるかと言われると、それは無理である。
入り込む暇がないし、入ってもすぐ悲しい別れが来てしまう。
夢の世界に入り込む権利として、ある程度長い孤独の時間は必要なのだ。

脳内世界のイメージは、何というか、一体化していない。
大きな世界というより、映画のワンシーンのように、どこかの場面を切り抜いた景色が脳内に広がるからだ。
ただ・・・共通点を言うのであれば、野外ならその世界は、ずっと晴れだった。
年を重ねるにつれて、自分の空想の世界は、現実世界とのギャップがだんだんと埋まっていく。逆に言うと小さいころ、小学校2年生あたりの頃が俺の空想世界の全盛期(ここでは現実っぽくない度のことをいってるヨ)であった。世界観で近いのが、昔やったPS2のキングダムハーツのようなものだったと記憶している。

・・・と思ったけど、検索してみるとあの時見た紫色の世界観とまったく違うんだよな、じゃあいったい何だったんだあれは。

本題にそろそろ入りたい。
当たり前のことだが、隣にいる茜茜に俺の脳内キャラクターは動かせない、俺の脳内構築された世界は誰も壊すことができない。
ひとたび俺がその気になればキャラクターはあっけなく死ぬし、目が飛び出るような超常現象だってこの世界ならお手の物だ。
これってもう、私たちが普段概念として認識している「神」に等しい存在であるという事なんだ。
つまり、誰だって神になれる空間はあるし、誰だって神なんだ。
・・・・と思っていた。

ちょっと最近になって、考えが修正された。
自分の脳内世界への概念について。

当たり前のことだが、自分の脳内世界で構成されている要素は、すべてが「俺」なんだ。
流れているBGM、あたりに生える草木、発されるキャラクターの一言一句・・・すべてが「俺」そのものなんだ。
どのキャラクターも、モチーフとなっているのは、俺が影響を受けた「何か」であって、つまり俺なんだ(錯乱)

で、自分は今SRPG STUDIOでゲームを作っているんだけど、
「Gaining Fate」っていうゲームね、2024年体験版リリースだお(宣伝)

みんな、よく聞いてくれ。
今映っているキャラ二人は、俺なんだ。
もっと細かく言うと、俺のどこか一部の要素を抽出して出来た合成物質なんだ。
言葉遣いにしたって、雰囲気、能力、すべて俺のある要素をまとっている。
それは一部じゃない、このキャラたちは、全部が俺なんだ。

だから、このゲームがリリースされるという事は、俺にとってはそんな呑気な顔していられることじゃないんだ。
俺という存在がどうであるかは、すべてこのゲームの中に詰め込まれている。
配置されている草木や家、話の展開、セリフの一言一句。
これは俺だ、あやさとだ。俺が普段何を考えていて、どういう葛藤があって、俺の中ではどんな広大な世界が広がっているか、ゲームは俺の脳内を覗くことのできる顕微鏡のようなものなのだ。
俺は、やってやる。
今まで、苦労もしてきた。葛藤も喜びもあった。
どこにでもいる165cm細身の20代会社員。
だけど俺は、俺しかいないんだ。
俺が生きてきた20余年がこのゲームに随所に現れる。
何もそれは俺に限った話じゃない、作品全体に言えることだ。
音楽を聴いているとき、小説を読んでいるとき、この奥から聞こえる鼓動を、呼吸を、そして魂を、感じ取ったことはないか?
俺は、ある気がする。
その魂は、俺の一部となり、俺の作品に影響を受けた少年は、俺の少しがその少年の魂をかたどる一部になる。
そうすれば、俺は、この世に存在したことに少し「意味」を見出せることになるんじゃないかな。
みんな、いいか。
これはただのゲームじゃないんだ。
俺だ、俺自身だ。これが芸術だ。
売れるか売れないかじゃない、きっといいゲームにしてみせるよ。


P.S
茜茜とすみっコぐらしの映画を見に行きました。
良すぎた。
すみっコぐらしが覇権を取る日は近い。


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