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マスカットと白いお皿


 マスカットと白いお皿はとてもよく合うと思う。 

 ところでわたしの甘い『昨日』について話そう。

 昨日の朝。とてもよく晴れていて少し窓が開いていた。寒すぎず、強すぎない風が心地よく流れてきた。

 キレイな2DKのマンション。清潔でモダンで、機能的。都会の真ん中にあるから車は必要ない。オートロックだし、注文した荷物を仮置きできる収納ボックスもある。家賃が高いマンションではお馴染みの受付嬢がいる。

 部屋の中はとてもシンプルな家具で構成されている。白くて大きなカーペット。天井には部屋を明るく照らす電灯。隅の方でひっそりと役割を生やしている超音波アロマ加湿器。自動で掃除をし、終わると勝手に元の位置に戻るお掃除ロボット。まるでインテリアのようにテーブルに置いてある灰皿。

 わたしはそんなマンションに住んでいる。

 心地よい風を浴びながらベッドから起きると、まずわたしは先に起きていた同居している彼氏に腹を蹴られた。わたしは勢いよく飛ばされ、そして再びベッドに戻った。彼のこういう暴力は日常茶飯事なので、慣れてはいたのだが、やはり痛い。

 彼は顔立ちの整った長身で、口数が少ない大人しい人間だった。幼少のころから父親と兄から日常的に暴力を受けており、歪んだ父権的圧政の中育ってきた。

 彼は朝から機嫌が悪く、仕事の準備が遅れていることにイライラしていた。聞けば、いつも定位置に置いてある腕時計が今日に限ってどこにもなく、それを探しているうちに家を出る時間がどんどん遅れていっているとのことだった。私からすれば時間なんてスマホで見ればいいのにと思ってしまう。

 朝のパンとコーヒーを自分用に用意してテレビを見ているわたしの頭を彼はまた2、3度叩いてきた。おかげで角砂糖がうまくコーヒーカップに入らなかった。彼のこういう暴力は日常茶飯事なのだが、やはり痛いし、理不尽に思う。

 時計はきっと車にあるんじゃないの、とわたしが言うと彼のその険しく余裕のない表情がほんの少し納得の方向に一瞬変わる。一緒に住んでいるとそんな微妙な表情の変化もわかってくるものである。

 準備を終え、彼は無言で玄関に向かう。わたしは玄関まで見送る。こうしないと彼はひどく機嫌が悪くなるのだ。彼は背中で玄関の扉を閉め、そして勢いよく施錠する。わたしに部屋から出るなよ、というメッセージなのだ。一緒に住んでいるとそんな微妙で曖昧な態度でも伝えたいことがわかってくるものである。

 しかしわたしは今日は家に出かけないといけない。彼が金融機関から借りているお金を、自動返済機から支払わないといけない。遅れるとなぜかわたしが彼に問いただされるし、顔の知らないスーツを着た礼儀正しいお兄さんがやってくる。だから今日は外出しないといけない。

 でもわかっている。彼はドアに細工をしていて、わたしが一歩でも外に出れば、ドアの外側から挟んでおいた小さなメモ用紙がひらりと地面に落ちる。外側からこの仕掛けをしているせいで、わたしは誰かに頼んだりしない限り、家の内側からこのメモ用紙を外側に挟むことができない。わたしは彼についてきてこの街に引っ越してきたばかりなので、友人や知り合いはほとんどいない。

 しかしわたしは今日は出かけなければならない。借りたお金を返済しないといけない。そうしないと、スーツを着てニコニコしたお兄さんたちが8時~17時の法定をしっかり守った時間にやってきて「ご返済の件でお伺いしました。ご様子はどのようでしょうか」とインターホン越しにやってくる。だから今日は外出しないといけない。

 午後9時。わたしが家でテレビを見ていると、彼が帰ってきた。彼はきっと例のメモ用紙が地面に落ちているのを発見したのだろう。外出したわたしを問いただしたり、咎めたりする前に、勢いよくわたしの脇腹にパンチを繰り出した。衝撃吸収素材のインナーを着ていたし、彼のこういった暴力は日常茶飯事ではあったが、やはり痛いし、理不尽だし、暗い気持ちになる。わたしは外出した理由を素直に打ち明けた。けれど彼はそれで納得したりはしなかった。それならどうして俺にちゃんとそのことを伝えなかったんだ、どうして朝そのことを俺に言わなかったんだ、お前は誰のおかげでこんなキレイなマンションに住めると思っているんだ、働かなくて、なにもしてくてもよくて、どうしてお前は俺を裏切るようなことばかりするんだ、と顔を真っ赤にしてヒステリックにそう叫んだ。

 わたしは何も言えず黙っていた。わたしには彼が怒る理由がさっぱりわからないからだ。彼の怒りも、彼の暴力も、彼の慟哭も、わたしには理解できない。

 そんなときわたしは、子供のころのことを思い出す。まだ父と母が喧嘩せずに仲良く暮らしていたころのことを思い出す。新築の引っ越してきたばかりの家の玄関に飾ってある、プラスチックで作られた食べることのできない飾り用のマスカットのことを思い出す。偽物のマスカットは、手で触ってみるまでそれが偽物であるかわからないくらいよくできている。父と母が喧嘩して、家の家具がめちゃくちゃになると、わたしはよく家の玄関に避難した。外に出ると怒られるし、2階へ登る階段は上がることを禁止されていた。だからわたしは騒動が始まると決まっていつも玄関へ行き、そして偽物のマスカットを眺めていた。父の壁を殴る音に合わせて壁に掛けてあるマスカットが揺れる。わたしは何も考えることができなくなる。

 彼の激しい慟哭は、終わると穏やかになり、甘い空気に包まれる。優しくわたしの髪を撫で、アザになった箇所を丁寧に舐めてくれる。彼はわたしにどこにも行かないでくれ、と言う。わたしはどこにも行かないよ、と返す。わたしたちはシャワーを浴びながらそんな風に言葉を交わし合う。穏やかで、甘い空気がわたしたちを包み込む。わたしはずっとあなたのそばにいる。

 ベッドに入ると、彼はすぐに寝息をたてて眠った。わたしは寝つきが悪いのですぐには眠ることができず、ついさっきの甘い空気について考える。わたしはどこにも行かない。甘い甘いマスカットが、わたしの記憶を包み込む。

 あるときからわたしは、幸せと不幸せの間の境界線をなくしてしまった。わたしには、幸せも、不幸せもない。幸も不幸もわからなくなってしまった。父が壁を殴って揺れるマスカットを見続ける日々のなかで、わたしにはきっと喜びも悲しみも、どれも似たような感情なんじゃないかと思うようになっていったのかもしれない。誰かがわたしを殴る。誰かがわたしにひどい言葉を発する。悲しいと思う。痛いと思う。気持ちは沈む。けれどもそれは、わたしにはどうしても不幸に思えない。悲劇に感じられない。玄関でひとり眺めた偽物のマスカットのように、甘く穏やかに揺れているイメージなのだ。

 きっと彼のような人間には、わたしのような幸と不幸が融合した人間が必要なのだろう。わたしにはわかる。

 なぜなら彼も、幸せと不幸せの区別がつかなくなっているのだから。

 無口な彼が以前、白くて丸いお皿が嫌いだと話してくれた。まだわたしたちが付き合う前のことだ。彼は幼少のころ、食卓に並べてある白くて丸いお皿を父からも兄からも投げつけられた。お皿は彼の体に当たって割れたり、割れなかったりした。お皿の破片が数日経って頭から出てきたこともあった。彼は、白くて丸いお皿を出してくる店をいつも避けていたし、この家に引っ越すときにもぜったいに買わなかった。彼にとっての白くて丸いお皿は、不吉で暴力を示唆するものであったのかもしれない。

 けれども彼は気づいてないのだろう。

 この部屋に大きく敷いてある白くて丸い、大きなカーペットのことを。

 きっと彼は気づいていない。

 天井の電灯も、超音波アロマ加湿器も、灰皿も、自動でお掃除してくれるロボットクリーナーも白くて丸いことを。

 家具は全部彼が自分で選んだものだ。わたしは何ひとつ自分で選んでいない。彼はきっと無意識にそれらを選んだのだろう。

 キレイなマンション。静かで清潔で機能的。都会の真ん中にあり、家賃もかなり高いところにわたしは住んでいる。きっとわたしは、子どものころに玄関で眺めたマスカットなんだと思う。きっとあれはわたしだったんだろう。彼の不吉と暴力を示唆する白いお皿の上に、殴る衝撃に合わせて揺れるマスカットが置いてある。

 わたしは隣で寝息を立てている彼を見た。

 だからわたしは、ずっとあなたのそばにいる。

 わたしはどこにもいかない。

 ずっとずっと、あなたのそばにいる。



 











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