私の百冊 #05 『失われた時を求めて』プルースト

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) プルースト https://www.amazon.co.jp/dp/4003751094/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_vTyMFbWXY4390 @amazonJPより

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Amazonのリンクが巻1なのに、書影はなぜ巻14なのかと言えば、僕がこれを読破したことを自慢したいからである(えへん!)。

誰もが名前を知っているのにも関わらず、読んだという人間とは滅多にお目にかかれない本、というジャンルがある(僕が勝手に作った)。分子に「名前を知っている人数」、分母に「読んだという人数」を置いたとき、その値が極めて大きくなるという意味だ。この値を、ひとまず〈読まず嫌い値〉と名付けよう。嫌いかどうかまでは知らないが、とにかく読んでいないのは事実なのだから。※どなたか命名センスのある方に代替案を御提示頂けると嬉しいです。

『失われた時を求めて』は、〈読まず嫌い値〉の高い代表的な作品のひとつだろう。何故そうなのか?の理由は簡単である。とにかく長いのだ。Wikipediaによると、「日本語訳では400字詰め原稿用紙10,000枚」だそうである(ちなみに『源氏物語』は2,400枚だと言うから、やはり長い)。たとえば同じように〈読まず嫌い値〉の高い作品に『ロリータ』を挙げることができるわけだけれど、『ロリータ』の場合、ちょっと事情が異なってくる。

『ロリータ』は、うっかり登下校中の電車の中でそれを読んでいるのを同級生(女子)に発見されたりすると、その後の学園生活に重大な支障を来たす恐れがある(…というか、間違いなく来たす)。他方、『失われた時を求めて』の場合、仮に読んでいるのを発見されたとしても、そのようなリスクは少ない(時流はマイノリティにやさしくなっていることでもあるし)。もしかすると最初はちょっとばかり感心されたりするかもしれないのだ(ただし、モテるかどうかまでは知らない)。

ところが、『失われた時を求めて』には別の問題が横たわっている。先週ちらっと見えたときには『ゲルマントのほうⅠ』(巻5)だったのに、今週ちらっと見えたのもやっぱり『ゲルマントのほうⅠ』だったよ――なんて、いささか不名誉な噂が立つという問題だ。そう、本作は厭きるのである。もっと言ってしまえば、うんざりしてくるのである。特にこの、例を挙げた『ゲルマントのほう』(巻5・6・7)の三冊が、最初の鬼門だ。

『スワン家のほうへ』『花咲く乙女たちのかげに』まではいい。スワンは素敵だし、オデットも素敵だし、ジルベルトは可愛いし、アルベルチーヌも可愛い。ところが『ゲルマントのほう』に入ると、事態は一変する。ゲルマント公爵夫人やシャルリュス男爵などといった、とんでもない人間が前面にその鬱陶しい顔を押し出してくる。少年が青年になってしまった…とでも言えばいいだろうか。少年というのは「早く大人になりたい」と願う存在なわけだけれど、いざ青年になってみると「子供のままでいたかった」と嘆息するものだ。その「早く大人になりたい」の憧憬がスワンやオデットなのであり、「子供のままでいたかった」の鬱屈がゲルマント公爵夫人やシャルリュス男爵なのだと言ってもいいだろう。

では、なんとか『ゲルマントのほうへ』さえ乗り越えればいいのかと言えば、困ったことに、実は全然まったくそうではないのである。この先はもう鬼門しか現れず、もはや『スワン家のほうへ』や『花咲く乙女たちのかげに』で見られた甘さや切なさなど、見る影もない。『囚われの女』や『消え去ったアルベルチーヌ』などは、なにしろアルベルチーヌがあまりに可愛らしいものだから、主人公の振る舞いに腹立たしさを感じさせられる。

とは言うものの、あなたに持て余すほどの時間があるというのであれば、読んで損をすることはない。実際これを読んだ人間(僕のことだ)がそう言うのだから(たぶん)間違いない。少なくとも自室の書棚に『失われた時を求めて』全14巻が並んでいる(それも読み終えた本として!)景色は、そこはかとなく自尊心をくすぐってくる。誰かが訪ねてきてそれを見つけ、大いに感心してくれるというわけでもないのだけれど…。(綾透)

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