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若きアーティストが、創作と経済活動の間で難しさを抱えるのは、どこでもおなじ

旅の日課にしているnoteの記事だが、はじめて1日空けてしまった。1日かけて鉄道で移動していたためだ。ベルリン中央駅を朝6時27分に出発する鉄道に乗り込んで6時間かけてミュンヘンへ。乗り換えてさらに6時間でイタリアのベローナに着く。そこから1時間でヴェネツィアだ。ちょうど夕暮れ時に到着した水の都ヴェネツィアは、最高の景色。水上バスで移動してホステルにたどりついたのは22時だった。

鉄道移動の後半では6人掛けの個室をほぼ1人で使えたので、寝っ転がって本を読んだり、マキとトーマスが持たせてくれたお弁当を食べたり、窓の外をながめながら音楽を聞いたりと、かなりくつろげたのだが、それでも長時間移動は疲れる。

ベルリン最終日には、「ウデカ」と呼ばれる芸術大学の卒業制作展に出かけてみた。多くの人で賑わっていて、作品の質も驚くほど高く、ベルリンのアートシーンの底力が感じられた。

学生と積極的にコミニケーションを取る人が多く、学生たちもきちんと自分の作品の前にいて、丁寧に話をしてくれる(たぶんかなり緊張しているんだろうけれど)。

版画の制作工房では、作品のみならず道具や制作過程まで紹介していたのを好ましく感じた。単純に面白いし、彼らが制作にかけている時間、身体、情熱が、浮かび上がってくるからだ。

かつて銀座の画廊で働いていた頃に、社長に「新人発掘をせよ」と命じられ、東京都内のありとあらゆる大学の卒業展示に出かけ、作品を観まくったことがある。もう10年以上も前のことだが、その時のことを思い返すに、日本のアート学生はウデカで見る学生ほどの情熱を持ち合わせていない。新しい才能をみつけることに本当に苦労した。思い返せば展示作品の前に学生がいないことがほとんどで、名刺を置いていないパターンも多く、連絡さえしにくかった。

しかし、ウデカでは、どの作品もすぐに購入したくなるほどのクオリティであったし、インスタレーションも美術館で展示されていてもおかしくない堂々たるものだった。新人発掘の目線でみれば、選び放題という状況だ。技術が高く目指している表現の方向性を、作品として昇華する能力がある状態が前提で、その上で画廊のスタイルや顧客の好みにフィットする作品を、その場で選ぶことができる。なんと贅沢なことだ。

ウデカの後には、トーマスのスタジオに寄らせてもらい、彼が制作した、日本の伝統文化にインスピレーションを受けた美しい抽象絵画を見せてもらった。伝統的な日本家屋にぴったりとフィットしそうな絵画で、これもまたすぐに欲しくなる作品だ。

夜はトーマスがチキン南蛮をふるまうというので、マキやトーマスの友人のアーティスト3名も交えて、小さなホームパーティーになった。昨年マキと知り合った神山のレジデンス期間中に神山を訪れてくれていた、クリスティーナとも再会できた。

ベルリンを拠点に生きるアーティストの彼らは、どうしても行き当たりばったりになりやすい経済状態の中で、どう制作を続けられるか、それぞれに苦労しているようだ。それは彼らが若く実力がないからというわけでは決してなくて、むしろすごい才能と実力をすでに備えている。しかし、さらにその実力を磨く過程の中で、いろんなレベルでおこっている難しさがあるのだという話なのである。日本のアーティストと悩みは同じだ。

ともあれ、皆ベルリンでサバイブしている。感性豊かで繊細なアーティストたちとの集いは楽しい。私自身もリラックスできるし、アートばかり追いかけている私にとっては、気負わずに話ができて、話が合う。

「ドクメンタのトーフファブリックの作品はすごくハードだったね。僕も気持ち悪くなった。でもあの作品を制作したアーティストは、殺人者の母親を取材したりしてて、社会が隠してしまう物事とも向き合っているんだ」

とても興味深い話もできたし、時には冗談も言い合いながら、あっという間に夜の1時がやってきた。

友人たちを見送ってから、酔っ払っているはずのマキとトーマスがお弁当をつくりはじめた。マキはサンドイッチ、トーマスはなんと卵焼きを作ってくれたのだ。

彼らのアパートを出る時には、次に会えるのはいつだろうと、少しさみしかった。


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