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視覚と感覚を言葉にする芸術学の世界

思い出すほどに充実していた京都芸術大学での学び。レポートの提出のみならず、通信学部にはスクーリングがあります。週末3日間の集中講義で朝から晩まで美術史漬けになったり、希望すれば創作系の他学科と共同でデッサンや彫塑など制作の授業も受講できました。

アートを学ぶこととはなにか?

芸術学の学びは、各国の美術史(歴史)を学ぶことと、美学(哲学)を学ぶことに主軸があります。先生がたはレポートの採点とともに、大切なことを教えてくれました。

アート鑑賞はつねに「極私的」な感想から始まる

レポートで常に問題視されたのは、私自身の考え方、ものの見方がどこに存在しているのか?でした。

美術史を教科書や図書資料でよく調べても、それらを上手に要約しただけではよい評価がもらえません。まず自分自身がどう感じているかに向き合い、その感じ方が何につながり、どういう意味を持ちうるのかを、資料を使って検分するというのが芸術学レポートの書き方なのです。

正解は常に自分の外側にあり、その正解にたどり着くために学ぶこととは、真逆の世界。まず自分の内側に学問の意義を求め、学びながら自分自身の価値観や美意識、世界の捉え方を育てていくのが芸術学という学問だったように思います。

視覚や感覚をどう記述しうるのか?

ある教授がいいました「アートは視覚で読み解くもの。それを言葉にすることには、そもそも無理がある」と。

確かに、言葉で世界の全てが説明可能なのであれば、視覚芸術としてのアートは存在意義がありません。アートは言葉で説明できないから意味があるのです。一方で、芸術学は視覚芸術としてのアートを言語化して研究している分野です。対象と手法に常にズレが発生している、パラドックス!

この「気づき」を与えられたことで、私はアートの傍らにある言葉の意義や役割について、深く考えるようになりました。

アートそのものを言葉では語りきれないことは自明です。ですが、言葉の力があれば、実際にそのアートを見たことがない、より多くの人に、そのアート出会うきっかけになりうる情報を伝達する役割を担うことができます。

また、文化の文脈が異なる鑑賞者に、背景情報を捕捉をすることもできるでしょう。

いまも、アーティストと活動を共にしていると「言葉の人」と言われることが多くあります。これは本当に、芸術学のレポートを書き続けた日々がつくってくれた土台です。

批判的に検証する態度

社会学では「世の中の常識と前提を疑え」と教えられます。一方で、芸術学の世界では教授に「批判的に検証せよ」と教えられました。

批判無くして、そのものの新しい価値を見出したり、言語化することが不可能だからです。

アートの学びでは、どう創作されたのかと同等に「どう受容されたのか」という、鑑賞者の立場も研究対象です。なぜならば、アートは創作されたら全てが「美術(ファインアート)」であるわけではありません。

そのアートに価値がある、「美術(ファインアート)」であると、受け止める人や文化的な土壌が存在して初めて、歴史に残るアートになります。

芸術学を学ぶ人は、過去の人が認めてきた価値あるものとしての美術史を学ぶわけですが、いまを生きる研究者の責務は、いまの価値観でその作品を読み解いた時に、かつてその時代にその作品が歴史上で受容されてきた事実からさらに付け足してまたは異なる視点から、一体何が言えるのか? を、記述することなのです。

上記の「極私的」な感想とも重なってきますが、すでに言及済みの価値や視点ではなく、異なる価値や視点を見出すための態度が「批判的検証」というわけです。

京都芸術大学での学び編、あともう一稿は書きたいなと思ってます。


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