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いばしょのおまもり

どうしようもなくだめになったとき
私の人に頼れない性格を加味してもそれでも助けてほしいと、
手を伸ばせるような人が東京にしかいない。
だから私は早く東京に出なければいけない、私に息をさせるために。

そんな思いで生きていた。


今月頭、東京に遊びに行った。
半年前に行ったバーで会った人たちに、また会うためだ。

そこではたくさんの懐かしい顔に再会した、
今回私を誘ってくれた人だけじゃなく、半年前にあった人みんなが私のこと覚えていてくれていた。
おかえりと言ってくれた、また会うまでの時間なんてなかったかのように話をしてくれた。
やっぱりここでは息ができると思った。

次の日も、その中の何人かに誘ってもらい急遽一緒に遊ぶことになった。
その次の日も、一緒に遊んだ。おいしいものを食べた。
みんなあたたかかった。

半年前に一度会っただけの人間を覚えていてくれて、形式だけでもあたたかく迎えてもらえるだけで私には手いっぱいで、
もう胸がちぎれそうなくらいで抱えていられないのに、
私がたった一杯お酒を注文するのに親身に選んでもらったり、家に泊めてもらったり、私と遊ぶために時間を使ってもらったり。
私はちゃんと認識されていて、ここにいていいんだと全身で思わせてもらえるような時間だった。

そんな中、芽生えた別の感情があった。
― ああ私、ここじゃなくても生きていける。

ずっとずっと、ここ(東京)でないと生きられないと思っていたはずなのに、
突然にここじゃなくても大丈夫だという感覚に変わっていたのだ。

この人たちは、この場所は、きっと私がどこにいても私の居場所だ。
だから私は、どこにいても大丈夫。

これは多分、どれだけ言葉を尽くしても他人の誰にもその輪郭が伝えられないような、大きな心の変化である。

"どうしようもなくだめになったとき、手を伸ばしてもいいと思える人"
それは確かに私にとってとてもとても大切な存在の人たちであるけれど、
私にはここしかないと、そんな風に縛られているようでは本当の居場所ではなかったのかもしれない。

― ここはわたしの居場所だから、わたしはどこでも生きていられる。
私は、私がこの感覚を確実に捉えられるだけの感性と、
この身で大きく実感できるだけの背景を持っていることを本当にうれしく思った。

私は東京にいないけれど、東京には私の拠り所がある。

そんな居場所のおまもりのおかげで、今後私が東京でないところに住んだとしても、結局東京に住むことにしたとしても
その選択は、かつての私がしたかもしれないそれよりも、きっと自分にとって輝いたものになっているだろう。











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