見出し画像

『ペンキ塗りのアイボリー⑤水樹香恵』

6、キニゴスパークとアニミズム

大時計台の長針が真上を向いて、正午の鐘が鳴る。
ハニカムスクエアを始めとする自然的な観光区域とは異なり、ターミナルエリア周辺地区は実に機械的なビジネス街だ。
昼間には人が消え失せ、深夜には行き場の無い若者達の"たむろば"となっている。都会で度々問題視されている廃棄物の不法投棄や壁のらくがき等は見かけないものの、酔いどれ同士の呂律の回らない怒号が時たまに響いていた。無法地帯予備軍と言っても良い。
流石に警察沙汰になる程の大事が起きた事例は無いが、交通手段の他に長居する者は少なかった。触らぬ神に祟りなしである。時間に追われ、課題に追われ、自分を守る事で手一杯の人間が多いのだ。故に「言動が荒く、頑固でガサツで冷酷だ」と捉えられてしまう。
豊かな自然と高層ビル群に挟まれた中途半端な田舎町においては、さほど珍しい事でも無い。

絵に描いた様なコンクリートジャングルで生まれ育った青年、エドニール・トウー・アスタ=ライにとって、それはある種の心地良さをも感じさせられた。
ーー同じ人間。されど他人。プライベートな部分には深く入り込まず、上っ面だけでご機嫌取りと社交辞令をこなす。それだけで人間社会はまかり通る。適当に斜に構えていれば多少問題はあれど何とかなるものだーーというのが彼の信条だった。
30数年何不自由無く生きてきて、要領良く難関を掻い潜りスピード出世したエドニールは今、自身がプロデュースを手がける芸能事務所"アスタレイ"の代表取締役を務めている。若手起業家として様々な媒体で特集も組まれており、世間の注目度も高い。街中では幾度も声を掛けられ、当初は少なからず浮かれもしたが、次第に他者とのコミュニケーションが億劫になり始めていた。
そんな中、事務所の看板アイドルであるアイリス・ドネ・ブルネージュが失踪。正確には、地元の凱旋コンサートの為に許諾した短期休暇の無断延長である。そもそもの凱旋コンサートだって、企画を組んだのは彼女自身だった。それにより生じたスケジュール調整で、エドニールは生まれて初めて"残業"というものを経験する。カフェインで喉を潤したからか夜も寝付けず、暗い部屋の中、大して波長の合わないバラエティ番組を無心で眺めていたのはつい先日の事だ。おかげで今もまだ身体が硬直したように重だるい。
昨夜から10を超えて連絡をとっているのにも関わらず、その全てが既読無視。普段から他人を舐め腐った態度を取る典型的な悪童だったが、ここまで指示が通らないのは初めての事だ。
何か事件に巻き込まれ、管理責任を問われでもしたら大事になる。それこそ、これ迄コツコツと積み上げて来たキャリアが全て吹き飛びかねない大失態だ。
「全く、余計な仕事増やしやがって。減給だ……減給してやる……。オレを何だと思ってんだ……。これだからガキは嫌いなんだ……」
度の強い眼鏡の銀縁フレームが太陽光で熱を持ち、耳の裏に嫌な汗が流れる。エドニールはクマの目立つ細長の瞳を吊り上げ、大きく舌打ちをした。普段から猫背になりやすい長身痩躯の彼は、長い脚をわざとらしく踏み鳴らしながら、少女の実家がある観光区域外南東の一般居住区へと向かうのだった。


発車を知らせる構内アナウンスと共に、ケルト調の穏やかな音楽が鳴り渡る。ふわりしゅわりと溶けていく様なマリンバの音色の中に時折強く存在感を放つシロフォンが癖になる独特なメロディーは、初代自治会長であったリドヴァンがシアンタウン創生の記念として、旧知の仲であるアマチュアの作曲家に依頼したものらしい。当時はこれを課題曲とした音楽祭が開かれたり、レコードが全国区で発売されたりとかなりの注目を集めていたが、リドヴァンの死後は作成経緯不明のオカルトとして世に浸透していった。今ではこの町に7つ存在する都市伝説のひとつとなっている。リドヴァンからしてみれば良い迷惑だが、当の作曲家は名を変えてプロデビューを果たし、今も現役で活躍しているという。
車輪が線路をリズミカルに叩く音が次第に速度を上げ通り過ぎて行くと、ふと我に返ったか蝉達が一斉に羽音を響かせた。
つい先日まで雨に濡れしっとりとした空気を纏っていたシアンタウンは、助走も付けず夏を迎えたようである。
雲一つない空に我が物顔で居座る太陽が、容赦無くこちらを睨んでいた。

オランジュとアイリスは申し訳程度に敷かれている芝生脇の遊歩道で、2人静かに立ち尽くしている。
ターミナルエリアの人々は徐々に減っていき、3箇所に離れて設置されているセンサー式の噴水はぱたりと動きを止めてしまった。
シアンタウン唯一の新設公共交通機関群とあって、首を痛める程の高さを誇るリュミノーステーションプレイスは、太陽光を反射しギラギラと輝いている。オランジュの祖父母の代に改築されたようだが、当時は景観を害すると反対の声も多かったそうだ。それもそのはず。以前のリュミノーステーションは木造平屋で、向こうに見える山々まで綺麗に視界に収まっていた。今では見る影も無い。
北西と南東で景色が180度変化するその様は、一種の美術展示を彷彿とさせる程だ。

ぐわんぐわんと喚く蝉達の合奏がより激しく響き渡る。
足元の水分はすっかり枯れ果てており、地面から照り返す、肌をチクチクと突き刺す様な熱に思考が奪われていく。
「……そんな事明かしちゃってさ、おれになんて言って欲しいんだよ」
オランジュは酷くやつれた表情のアイリスに対して、言葉を選ぶ余裕すら無くしていた。
「は?」
少女の眉間に深い皺が寄る。
「キミが今言った事はさ、状況的に多分……知ってるやつ少なそうだし、自分だけで抑えらんなくて吐き出しちゃった、みたいなやつだろ。誰かにどうにかして欲しくて、叫んだんだろ。でもおれは何にもしてあげらんないよ。ふわふわしてるやつに"ムショー"で優しくしちゃダメなんだって、母さんが言ってた」
「何? 別にわたし、あんたにどうにかして欲しいとか思ってないんだけど」
アイリスはぶっきらぼうに言い放つと左手で髪の毛先をぐにぐにと弄り始めた。指先がしきりに擦れ合って、忙しない動きを見せている。
「じゃあなんでわざわざおれにそんな話したんだよ」
「知らない! 言いたくて言ったんじゃないもん!」
咄嗟に叫んだアイリスの声が周囲の高層建築にぶつかり反響した。キン……という余韻と共に、遠くを行く人々の視線を集めている。少女の瞳は涙に濡れ、今にも下瞼から零れそうな程だった。
グッと唾を飲み込んで、オランジュは渇いた唇を舐める。
「…………。あのさ、生き物ってさ。無意識にやってる事でも、全部自分の意思で考えてやってんだって。だから、なんかわかんねーこと言ってたら、そいつの為にもちゃんと理由まで"ケイチョウ"するもんだ……って、父ちゃんが言ってた。寄り添ってやれってさ」
「はぁ? あんたさっきから何? 言ってる事ぐっちゃぐちゃじゃない? 母ちゃんが〜父ちゃんが〜って、ロボットかよ」
「あっ、"母ちゃん"とは言ってないだろ! "母さん"って呼ばないとすんげぇ怒られるんだからな!!」
オランジュは慌てて辺りを見渡した。周囲に人影が無い事を確認して、そっと胸を撫で下ろしている。
「は? 知らないしそんな事。どうだって良い」
「良くなんかねーよ! も、ホント、死ぬかもってぐらいこえーんだからな!」
その声の迫力たるや、如何に彼が母を恐れているかが見て取れた。大きな瞳を更に丸く見開いて、渇いた唇ははくはくとわななき、暑さとは違う別の汗が頬から首筋へと流れている。
「いや、わたしには関係ないし。てか親の言いなりになって恥ずかしくないの?」アイリスは至極興味無さげに腕を組み、仁王立ちで彼を見下した。「 ……あー……、かわい子いい子してもらいたいのかなぁ? 見るからにガキだもんねぇ!親の言う事ちゃんと聞けて偉いねぇ、あ〜かぁいくて良い子だねぇ!」
思いつくだけの罵声を、考え得る最上級の侮蔑を込めて言い放つ。どうにかして少年を言い負かそうとしているのでは無く、ただ率直に今すぐこの場から立ち去りたいだけだった。誰も居ない所へ、誰にも邪魔されない場所で、ただこの荒んだ心を沈めたかった。それだけだ。
「…………。……めちゃくちゃムカつくなー。親に愛されんのそんなに嫌かよ」
「…………………………は?」
一拍おいて漸く絞り出たその声は、動揺の色を隠せず上擦っていた。
「親の言うこと聞いて、手放しに優しくされて、人形さんみたいに大事に育てられんのが嫌なんだろ、キミは」
オランジュの発した言葉が、物理的に心臓を貫いたかの様に錯覚する。アイリスは両手で服の胸元をきつく鷲掴みにしながら、頭一つ分程小さな少年を見下ろした。真っ直ぐに視線が交差して、彼の瞳の中にある暑苦しい程の輝きに思わず恐れを成して後退る。
「…………や、……いや、いや、なに……? 今わたしの話なんてしてなかったじゃん。わたしは、今、あんたの事を、」
「うん」
「うんじゃないでしょ、何その顔、やだ……やめてよ、バカにしないで」
「してないだろ」
「うそだ」
「嘘じゃねーよ、分かるだろ、分かれよ。おれは今キミに寄り添おうとしてんだよ」
オランジュが両手を広げて抗議すれば、アイリスは威嚇する小動物の様に背を丸めながら後退した。先程自分で放り出した晴雨兼用傘のシャフトにローヒールのかかとがぶつかり、カンッと乾いた音に逃げ場が無いと諭される。
眩い陽の光が視界を白く覆い、肌をじくじくと焼いて、皮膚の内側を虫が這う様な不快感に苛まれた。久方振りに全身を襲う瘙痒感にどっと汗が吹き出るが、今は生憎頓服薬を持っていない。
「寄り添おうって何? 上から目線ウザいんですけど!」アイリスは心身共に巣食うチリチリとした痛みをどうにか払拭しようと、早口の大声で叫んだ。「あんた見るからに年下じゃん、偉そうに説教しないでよ、何様なの? そんなに偉いの? 良い加減にしてよ、 馬鹿なの? 言葉分かんない? 伝わんないかなぁ!」
「だからさ〜、説教なんてしてないじゃんかよ。キミこそなんでそんなにひねくれてんだよ。良い加減まともに話せって」
次第にオランジュの語気も強くなっていく。心窩部に留まる苛立ちとは裏腹に、徐々に赤みを増すアイリスの顔を直視する事が出来ず、皮の厚い己の手のひらを見下ろす他無かった。
「ひねくれてる?! 私が? ハッ、あんたの目どぉかしてんじゃないの?!」
ヒステリックに叫ぶ少女の声が鼓膜に突き刺さり、オランジュは反射的にギュッと強く目を瞑る。
「なんだよ、すんっげえ喋りづらいし面倒臭いなキミ!! やめろって! おれが疲れちゃうだろ!!」
「なぁんでわたしがあんたの体調気にしてやんなきゃなんない訳ぇ?! そもそもあんたが話しかけに来たんでしょ?」
「"イヴ"ちゃんがキミとルドーの事心配してたんだよ!! 見掛けたんだから声掛けるだろ普通……!!」
「大声出さないでよ、うるさいな!」
「キミが先に叫んだんだろ! 話聞かないから大声にもなるだろ、なんで人を悪く言うんだよ!!」
「被害者ヅラしないでくれる? こっちだってもぉ……しんどいんだけど……ッ! もぉ……っ、ほん、と、……やめてよお……っ」
「……えっ、」
言葉が段々と小さく、途切れ途切れになってゆくアイリスを見やれば、彼女は両手で顔を覆い地面に座り込んでいた。
「ふ、う、……ズっ……んぅ……うぇぇ……っ」
「え、えっ、えっ? あっ、」
しゃくりあげながら泣いている。同年代の女子が泣く姿を初めて目の当たりにし、オランジュは罪悪感と恐怖に駆られ慌てふためいた。
「え、うわ、コレ、え、」
「オランジュ!!」
「ぎゃいっ」
耳元で大きく名を呼ばれキーンと脳が揺れる。振り返れば見慣れた顔がそこにはあり、安堵やら何やらで訳も分からず涙が溢れてしまった。
オランジュが見上げれば太陽が隠れて影に覆われてしまう程の大男である。優に190センチは超えている。コミックに登場するヒーロー並に筋肉を付けたその身体は、ただそこに居るだけで犯罪抑止力に成り得る風貌だった。
「こんな太陽がギラギラん中で、帽子も被らず水分も取らず飛び出しやがって、何しとんじゃぁおまいは」
「父ちゃん、だってさぁ……!!」
「だってもクソもあるかぁ、おまいが倒れたら誰がその穴埋めをすると思っとんのじゃあ、おいらでねえか」
そう言って、大柄の男・アブリコッチェはオランジュの右耳をぐいと掴み上げる。一拍遅れて、「いでででで!!」と言う大きな叫び声が辺りに木霊した。
「オラちゃん、アブちゃん、いけませんこんな公共の場で親子喧嘩なんて、はしたない」鈴の音の様な軽やかなハスキーボイスが風と共に現れる。「お偉い様に見られたらまた評価を下げられてしまいますよ」
ふわふわと弾む暗みがかったミルクティーベージュの長髪を左肩に流して、足首まで隠れる長いワンピースにカーディガンを羽織った女性が、嗚咽を零すアイリスの背をさすっていた。
「母ちゃん!」
「まぁまぁまぁ、オラちゃん。ママの呼び方が野蛮です事。お家に帰ったらまた"お話"しましょうね」
オランジュの喉奥から「ヒュッ」と息を飲む音が聞こえる。
穏やかな雰囲気とは異なり冷たく凍える様な眼差しを持つ彼女は名をスィトリィと言い、オランジュの母、そしてアブリコッチェの妻であると同時に、アブリの総責任者を務めている生粋の女傑である。
「無抵抗の女の子を男2人がかりでいじめて、まあなんて可哀想に。怖かったでしょう、もう大丈夫ですよ」
アイリスに向ける猫撫で声のあまりの甘ったるさに、残された2人は身体を震え上がらせた。
「何言ってんだいママ! ママはおいらと一緒に来たんじゃねえか。おいらは関係ねえ」
「あらあら責任転嫁ですか。救いようの無いクズだ事」
「ええーっ! 酷いよママ、そりゃ無いべ、冤罪だ!」
「そ、そうだぜ母さん! おれも、おれも違うからな! そういうアレじゃないから!!」
「えぇえぇ、詳しい"お話"は後程たっぷり聞いてあげますからね」2人の主張をさらりと躱したスィトリィはアイリスの肩を抱き、優しく囁くように声をかける。
「……よしよし良い子。こんなに震えて……怖がらなくて良いですよ。うちで保護しましょうね」
「母さん、違うんだって、その子は、」
「何ですオラちゃん、言い訳なら聞きません」
「だから……っ! 言い訳でもおれの事でも無い! "違う"んだよ!! "おれら"とは……!!」
何やら切羽詰った様子で、オランジュが抗議する。
「あらまあ……そう……」
スィトリィは未だ泣き止まないアイリスの頭を撫で頬擦りをした。
「大丈夫。同胞の香りがするわ。私たちきっと分かり合えるのよ」
「母さん……!!」
「オラちゃん。アブリのお約束、忘れましたか?」
「………………っ。ボスの言う事は絶対……」
「えぇそうでしたね。ではどうしますか? ボス」
スィトリィはぷっくりと潤いのある唇の端をを淑やかに吊り上げて、アブリコッチェに指示を煽る。
「……ママがそう言うなら仕方ねえ。おいら達は残りのビラ、配り終わってから帰るべ」
「………………わかった」
オランジュは渋々頷いて、鞄に仕舞っていた100部以上あるフライヤーのおよそ半分をアブリコッチェに手渡した。淡い橙色の背景に、小さな子どもと毛艶の良い子猫が2匹写った写真と、来月ウインクガーデンで開催されるチャリティーイベントの日時や出店情報が記載されている。年に数度行われる馴染みのあるイベントで、今回は保護猫の譲渡会がメインとなっている。牧場もその期間は出店の一部に参加する予定だ。
「宜しい。ではママはこの子を連れてお家へ帰ります。あぁ、女の子は大勢に泣き顔を晒したくは無いものよ。ルシュカが車で待機してますから。……歩ける?」
1度もこちらを見ようとしないアイリスは、ただ小さくこくりと首を縦に振る。
スィトリィに連れられヨタヨタと危なっかしく歩くその姿が、何とも儚い幼子に見えて、オランジュはいつの間にか濡れていた頬を拭う事しか出来なかった。


あまりにも人間らしく、未熟である。
「……"イヴ"ちゃんと違う……」
その漠然とした違和感に、アイリスの言葉が重なった。
ーー"ルドー"のパパと、"イヴ"のママが、フリンして出来た子どもなんだ。
ーー人殺し、なんだよね。
ーー3人も殺しちゃったの。
その声はいずれも幼く、明るく、陽気に思えたものだ。
ただその一瞬。衝撃の告白をしたあの瞬間だけ、彼女はアイボリーと同じく人形の様な表情をしていた。生気が一切感じられず、目を見ればこちらの魂が吸い出されてしまいそうな底無しの虚ろ。
「…………ルドー、訳わかんねぇよ……」
オランジュはフライヤーの束を握り締めて、風に溶ける程の小声で呟いた。

パンドラの箱を開けたような気分である。
勇気をだして中を覗いて見たけれど、
箱の底には、何も有りはしなかった。

カラン、と入口のベルが鳴り、ランチタイム最後の客が帰っていく。


「お疲れ様ヴィオレちゃん。暫くはお客も来ないから、昼休憩取って来て良いよ」
厨房の奥から、穏やかな表情を取って付けた様な中肉中背の男性が姿を見せた。
「ちゃん付けやめなって何回言やァ分かんのよ。恥ずかしいでしょ。こっちゃもうとっくに成人してんのよ? お気軽に甘やかさないで」
「いやぁ当人に言われるとこう、なんか、不思議な気持ちになるねぇ」
男は見た目通りの柔らかな声音で笑う。白髪の目立つブロンドの髪を全て後ろに流し、白いコック帽を被る姿はやはり様になる。シアンタウン随一の腕前はレジ横の壁に飾られた数々の賞状やトロフィーが物語っていた。富豪や財閥関係者、芸能人も良く訪れる裏通りの隠れた名店「レストランアデッサ」。専属シェフのセレガノ・ラヴァンディフォリアと言えば、その道で知らぬ者は居ないという程名の知れた存在である。
ヴィオレが今唯一頼りにできる"まともな大人"で、曲がった事を嫌い、ただひたすら真っ直ぐに生きる自慢の父親だった。
「休憩、父さん先行きなよ。アタシが店番やるからさ」
「えぇ〜、昨日もそうだったじゃないか〜。悪いよォ〜」
「は? ぶりっ子やめな、マジで。アタシが居た方が何かとラクでしょ? 接客ゴミなクセに意地張んないの」
髪を解きながらヴィオレは横目でセレガノを睨む。ウッと胸を押さえたセレガノは顔のあらゆる部位をくしゃりとすぼませて泣き真似をした。
「ヴィオレちゃん、年を追うごとにキレが鋭くなったなぁ……。小さい頃はふわふわしたマシュマロみたいなお姫さんだったのになぁ……。はて、誰に似たんだか……。父さん、冷たくされると哀しいヨ、トホホ……」
「時代遅れも甚だしいわ。そのおサムい演技をやめりゃちったァマシになるでしょうに。あーあ、日に日にオヤジ度が増していく。コレじゃ到底母さんに会わせらんないわね」
「……それは辛いなぁ……、うん、本当に」
「…………」
「あぁ、休憩だったね。それじゃあ遠慮無く。カフェタイム終わる前までには戻るから、宜しくねヴィオレちゃん」
「あーはいはい、どーぞごゆっくり」
ギィ……ッと音を立てながら裏口が閉まるのを見届けて、ヴィオレはフッと息を吐き出した。シャリシャリと揺れる飾りの付いたピアスに触れ、指にこもる熱を逃がす。ぐにぐにと弄れば弄る程感じる微かな痛みに、沸々と湧き上がる怒りが鎮まって行く様な気がした。
「……はァ……」
お姫さん、だなんて言葉自体、もうかれこれ数年は耳にしていない。幼少期は確かに、お姫様やお嬢様なんて非日常的な存在に憧れもした。時折訪れるセレブが身に纏うクラシカルなロングワンピースだって、大人になればいくらでも楽しめると思っていた。それこそ、"ふわふわしたマシュマロみたいなお姫さん"に、なれるものならなりたかった。
だがそれらは全て絵空事。
アイボリー・リュカ・ブルネージュと相対してから、ヴィオレの抱く世界の色は一変した。あれ程までに完璧に着飾った"お人形"を未だかつて見た事が無い。自信に満ち溢れた様子の母親はいつも可愛く粧し込んだ娘を連れてやって来た。まるで己を際立たせるアクセサリの様に。そして未だ世界を知らぬ少女は、沢山のフリルをあしらったメルヘンなドレスに身を包み、朗らかに年相応の無邪気な笑みを零すのだ。
齢10にも満たない子どもにとって、親は世界の全てだった。どんなに苦しくても、悲しくても、怖くても、親の腕の中では安心して眠れる。必ずそこに在って、己の愛を拒絶しない、だからこそ存分に甘えられる、安寧のゆりかご。安全地帯。……然しそれがただの共依存であると気付くには、数え切れない程多大な年月を消費する事になる。
はじめてアイボリーを見た時、ヴィオレは心底哀れに感じたものだ。この親は我が子を着せ替え人形にして遊んでいる。一人の人間として接していない。そして少女はその事実に気付く事無く笑っている。
全ては、幼いヴィオレが肌で感じ取った印象論に過ぎなかった。だが、とある時期からぱったりと、アイボリーが綺麗な服を身に纏う事は無くなった。今にして思えば、それから程なくして妹が生まれているのだから、ヴィオレの推察もあながち誤りでは無いだろう。母親の美しさを引き立てる贄の役割が、妹へと移り変わったのだ。
それ以来、アイボリーは自分で選んだ質素で地味な色の服装で現れた。心做しかその笑顔にも、陰りが生じていた様に思う。それまで一欠片だって感じる事の無かった儚さがそこにはあった。

その時に恐らく、強い使命を感じたのだろう。
アタシが、守ってあげなくちゃ、と。
「…………ハッ、……笑える話ね」
ヴィオレは静かに嘲笑し、微睡みに身を委ねた。
「……他人の子どもの分際で、守れるなんて思い違いも甚だしい。家族ですら守れない人間が、よく言うわ」
ハニカムスクエアのスピーカーから、午後3時を知らせるアナウンスが響く。
「アンタが心の底から幸せなら、それで充分だったのよ。……アタシは、アンタが幸せだと思えるなら、それだけで良い。その為なら何だって犠牲に出来る……覚悟だってあった。……そんな、安直な気持ちでいたの」
陽気でハイテンポな曲が流れ始め、ヴィオレの独り言が相殺されていく。
「覚悟なんて……そんな薄っぺらい盾で、アンタを救えるはずも無かったんだわ。きっと」

カラン、と入口のベルが鳴る。

守りたいと願い抱き締めた腕の中から、ころりアイボリーが抜け落ちてしまった。


連休最終日の真昼時であるからか、キニゴスパークやその周辺にある駐車場は全て満車だった。シアンタウンの警備体制は手厚く、土日祝日を問わず24時間体制で警備員が目を光らせている為、路肩駐車はまず見掛けることが無い。そもそも違法行為に対する罰金が桁違いに高く、一般人では到底払える額では無い為、リスクを犯してまで停めようと思う者も少ないのだろう。流石"自然と芸術の街"を謳うだけあって、この辺りは特に治安維持が行き届いていた。観光客のみならず地域住民にとっても、これ程住みやすい街はそう多く見かけるものでは無い。

アイボリーはいつもの様にペンキ缶を抱え、キニゴスパークの巨大噴水を目指していた。シアンタウンの至る所に点在する公園の中で最大の敷地面積を誇るキニゴスパークは、南側一帯が海に面しており、一年中爽やかな潮風で涼を取る事が出来る避暑地として有名だ。浜辺が無い為海水浴は禁止されているものの、年齢問わず楽しめるアスレチックや水族館、室内プールや温泉等様々な施設が充実していた。高級宿泊施設が目と鼻の先にある事からも、連日大勢の人で賑わっている。


そんな人気スポットの中にあって、唯一心穏やかに過ごせる場所。それが、中央に鎮座する巨大噴水外縁である。昨今では珍しい大型の5段噴水で、円形の噴水を取り囲む様に形違いの彫刻が6つ並べられていた。その全てが小さな妖精の姿をしており、各々異なる植物を身に纏っている。ハニカムスクエアの彫刻と同じく作者・題名ともに不明だが、アイボリーは幾度と無く通う内に何故だが妙に愛着が湧いて、今では一人一人に名を付け可愛がっていた。彫刻の台座が劣化し表面が剥がれる度、特注で用意してもらった塗料で上塗りをする。自主的に行い始めた簡易な修復作業だが、街の景観保持施策として支援金が発生しているれっきとした仕事である。
「ロシェ、久しぶりだね。少し水を被りすぎたのかな。後で拭いてあげるからね。ちょっと待ってて」
長い髪を1つ括りのお団子にして、大きな薔薇の花束に腰掛けている一際小さな妖精。額に淡く輝く桃色の宝石が嵌め込まれている事から、ピンク色を表す言葉をもじりロシェと名付けた。他の5人の彫刻もロシェ同様、綺麗に包まれた花束の上に妖精が居る構図となっている。踏み潰す者、寝転がる者、そのポージングは様々だが、全て台座の足元にくたびれた花のオブジェクトがあった。七不思議のひとつであり、純粋無垢な子どもを攫う"フェアリーハメロン"を描いたものとする説が濃厚だが、真偽は不明である。アイボリーとしては、"人工的に造られた自然を否定し、ありのままを愛すべきだ"という作者のメッセージの表れでは無いかと推測している。いずれにせよ、自然と芸術の共存をモットーとするシアンタウンに於いてはかなり挑戦的な作品と言えるだろう。神秘的でありながらどこが不気味さをも感じるこの噴水は、根拠の無い噂や無粋な憶測が幾重にも重なる事で人々から避けられる様になってしまった。
アイボリーの両親がまだ存命だった頃は多くの人が憩いを求めてこの場に集ったが、今となっては、高齢者の散歩か、すぐ目の前にある公衆トイレの利用の他に訪れる者は居ない。
ほんの数年で、随分と寂れてしまったものだ。

「イヴ」
背後から、ふと声を掛けられる。
喉の奥で少し掠れた様な、然しふんわりと優しく包み込む様な暖かな声音。飽きる程聞かされてきた。その声の主は振り返らずともよく分かる。
「ルドー、会えると思ってた」アイボリーは驚いた様子の少年の姿を視界に収め、ふわり微笑んで見せた。
「きっとここに来る気がしたの」
「…………ふふ、奇遇だね。僕もここへ来れば、イヴに会えるって信じてた」
少年は目元が隠れる程の長さがある前髪をセンターパートにして、後ろ髪は程良くボリュームを持たせつつ後ろへ流していた。普段からヘアスタイルはきっちり整えている彼だが、今日はいつも以上に気合いが入っている様に思う。
ヘアワックスの香料だろうか。風に乗って、甘く濃厚なジャスミンの香りがした。
「……不思議。いつもそうやって私の行動見抜いてたの?」
「まさか。超能力者じゃあるまいし。……たまに、予知夢のようなものは見るけど……身内しか出てこないんだ。だから、本当に偶然だよ」
「ふうん、そうなんだ」
アイボリーは言い終えると、祈る様に胸の前で手を組み、右手の親指で左手の親指を撫で始めた。口下手な彼女が、次に話す言葉を考えあぐねている際によく使う癖だ。
「……イヴ。もしかして僕に用事があったかな」
「……! そう。実は、少しだけ、見てもらいたいものがあって、」
パッと彼女の顔が輝く。こんな時どう声掛けをすれば良いのか、ルドーはこの数ヶ月でその術を習得していた。
「良いよ、今すぐ見に行こう。ここからは遠い?」
「ううん、すぐそこなの。あの建物」
そう言って彼女が指さした先は、この公園唯一の公衆トイレだった。確か数年前に大幅な改築が成されていたはずだ。
「裏側の、外の壁なんだけど」
「うん」
「ちょっと前に街の方から依頼があって、外装の塗り替えをしてて……」
「へぇ、こんなところまで」
「前のトイレがだいぶ古くて、5・6年くらい前に建て替える時、私の両親がデザインを依頼されてたの」
「あぁ……なるほど」
「ね、見て」
アイボリーに手招きされて来た場所は、大木に囲まれていて人目には付きにくい森の中の様だった。公衆トイレの裏側は薄桃がかったクリーム色の壁に、色とりどりの花々が描かれている。その右側3分の1の面積は、真白に塗り潰されていた。
「コレね、私のお父さんが、ひとつひとつ丁寧に描いたものなの」
「とても上手だね」
「うん。普段は絵なんて描かないけど、仕事になるといつも楽しそうに、苦戦しながら、何とか描いてる感じだった」
「あぁ、そうか、劣化して……」
「うん、本来は薄ピンクの壁だったんだけど、潮風に当たってたからか着色汚れが酷くて……私が全部塗り替えるつもり」
凹凸のあるザラザラとした壁に触れて、アイボリーは物憂げにはにかんだ。
「ね、……よく見て」
薄汚れた外壁には、大きな花の絵に加え、近くで注意深く観察しなければ分からない、だまし絵の様なもうひとつの柄が隠されていた。凹凸の正体は立体的に造られた植物の蔦だ。爪の先より小さなそれは、ダイナミックな花の絵とは対照的に、気が遠くなる程の緻密で繊細なボタニカル・アートである。
「凄くこだわってるんだね。最近だとこんなに細かい模様の壁は見掛けないかな……」
「うん。私も初めて見た時、なんて言うか、……美術館で素敵な絵画を見て、息を呑むような……そんな感じがしたの」
「分かるよ。魂が揺さぶられる様な気持ちになるね」
「ふふ、そう言って貰えると嬉しい。同じ意見だったら、尚の事聞きやすいから……。……あのね、」
アイボリーはその模様部分に人差し指を添え、弧を描く様に白く上塗りされた壁を指さした。
「私は今、"この柄ごと汚れを潰してる"の」
「……っ!」
「ねぇ、ルドー、教えて。私はこの子を綺麗にしてる? それとも汚してる?」
真っ直ぐに、熱を灯した綺麗な瞳で射抜かれる。
「……………………」
ルドーは言葉を失った。
父・ボルドーが3年前に自死してから、シアンタウンに関する全ての決め事の最終決定権は全てバーガンディにあった。当時はまだ未成年であったものの、ボルドーの生前から職務を代行していた事から何も難しい事は無かった。議論をするのは全てお偉方。会議で決まった内容に目を通し、地主として認めの印を押すだけである。こちらが何か意見をしたとて、それが受け入れられる訳では無い。文字通り形だけの存在だった。
ただ、ゴーサインを出した人物としての責任は追求される。寧ろその為の盾役、スケープゴートに過ぎない。良い様に立場を利用されているだけだ。この外壁の修復だって、あの膨大な書類の束に紛れて込んでいたのだろう。毎月数百を越える改定や新提案に逐一細かく目を通す余裕など無かった。
「イヴ。違うよ。……それは君の所為じゃ無い」
「……ううん、誰かの所為とか、そういう話じゃないの。この子が悲しんでるならやめたい。喜んでるなら続けたい。それだけ。私は私の仕事にやり甲斐を持って…………。うん。今ある姿を変えてしまう事の責任を強く持った状態で、仕事に臨みたいの。その覚悟の為に、聞いてる」
「…………っそれは、」
ルドーは下唇の左端を強く噛み締めた。こんなにも彼女のペースに流されるのは初めての事である。
年上だから、男だから、好意があるから、地位があるから。無意識の内にこちらが上手であると錯覚していたのかもしれない。
己の深層心理にある価値信念におぞましさすら感じた。
「……………………ごめん。僕には……、分からない」
「……そう、そっか」
アイボリーは静かに息を吐き出すと、再び壁に触れ、小さな模様をなぞっている。
「私の話はお終い」
「え?」
「聞いてくれてありがとう。変な事、質問してごめん。私の用事はコレでお終い。……ルドーは? どうしてここへ来たの?」
「あぁ、……いや、僕は、」
バーガンディはザワザワと荒れ狂う心をどうにか落ち着けて、2度深呼吸した。お互いの顔を合わせない数日を思い返して、その間の空虚に身を任せてみる。
「そうだね。どうしても、君の顔が見たくて」
「…………やだ、口説いてるみたい」
普段と同じく呆れた様に笑うアイボリーの顔に、少しだけ安堵した。
「おかしいな、僕はずっとそのつもりなのに」
「オランジュが泣いてたよ」
「……………………えっ?」
「友だちとは、ちゃんと話し合って仲直りして欲しいな、って。思ってたんだけど」
「それって、……え……?」
「ふふ、ルドーは、人によって態度変えちゃうんだ」
「イヴ、」

「ずるいひと」

ふっと目を細めて軽やかに笑う彼女のその顔は、昨夜壊したばかりの「ブランシュ・メラ・ブルネージュの胸像」と瓜二つだった。

「あ……、」
悪魔の血が混ざってしまったーーリドヴァンの手記にあった一言が、瞬時に思い起こされる。

「違う、…………違う。僕は、」

悪魔とは真に、誰の事であったか。

「僕は」

ぐらりと視界が暗転した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?