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周りの意見への刺激と反応、そして気づきと

正しさ

やっぱりまだまだ根強く残っていた。
自分の中にある「私は正しい!」という感情。

複数人での会話の最中、自分とは違う意見の話を聞いている時だったか、とある言葉に反応している自分がいた。
その瞬間、もはや穏やかではいられなくなり、カラダ全身で脈打つような感じを覚え、次第にその場にいられなくなってしまった。

どんどん殻に閉じこもろうとしていることが感じられたため、途中でその場を一旦離れ、一人になった。

急に哀しさが込み上げてきて、
まるで自分の存在そのものを全否定されたかのような気がしてまって、
あとからあとから涙がこぼれてきた。

でも、涙を外に出したことで、冷静さと落ち着きを取り戻し、
またいつもの刺激と反応の思考パターンに陥っていただけだということに、すぐさま気がつくことができて、ひとつ大きく深呼吸をした。

そして、またそのトークの輪の中に戻っていった。


そこからずっと離れても、自分の中では何も解決されないことは明らかだったし、逃げたくなかったというのもある。避けていても、おそらく何も変わらないどころか、自分の思い込みにどんどんハマっていってしまう。

自分の中のフィルターでみてしまっているがために、現実を真正面から捉えられていない事もわかっていた。

自分の中の思い込みや、今の自分の状況を越えるには、きちんとトークの場に戻ることが自分には必要だと感じたのだ。

物書きをしている間、勉強している時など、
膝の上でよく眠っている。
可愛くて可愛くて、そしてあたたかい。



時々、そんなことが今でも起こる。
自分の中に強く強くあるのが「自分が正しい」という頑固さというか、
強情さとでも言おうか…。
他者の異なる意見を受け入れがたく感じる際に、起こる気がする。

そしてまた、自分と反対意見がそこに投じられた時、なぜだかいつも私自身を否定されたような錯覚に陥ってしまうのだ。

まあ、ある種の被害妄想なのだが笑

周りと自分の意見が異なることは、ごく自然なことなのだが、なぜだろう、そんなような感覚がしてしまうのは。

ふと、幼い頃のことが思い出された。

自分がこうしたいと思っていることを、母親にダメだと言われた時、
そういえばよく「私なんていなきゃいいんでしょ!」と思っていたことを苦笑
それとよく似ているような気もした。

”わかってもらいたい”

ただ、それだけなのかもしれない。

私が正しい というよりかは、
ただただ、
「私のことをわかってもらいたい」

「そうだね、わかるよ」
と誰かに言ってもらいたいのかもしれない。


幼い頃に満たされなかったその思いを、大人になってからも時々顔を出しては、まだ私に訴えかけていることなのかもしれない。

ただ、受け止めてほしいんだ。

そう着地した途端、
なんだか安堵感が込み上げてきた。

そして、受け止めほしい「誰か」とは

おそらく
”大人になったこの私” 
のことなのかもしれない。


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