令和六年能登半島地震に思う

2024年1月1日。
能登に大きな地震が発生した。
それ以来、地震のことばかりを考えてしまう。

29年前の阪神淡路大震災のとき、私は尼崎で一人暮らしをしていた。

ドーンという大きな音が聞こえた。夜も明けきらないこんな時間に、いったい誰が太鼓を鳴らしているんだろう。そう思いながら窓の外を見やったのを今でも覚えている。その後だった。大きな揺れに襲われたのは。とっさに机の下に潜り込んだ。小学校でさんざんにやらされた避難訓練はこのためであったかなどと考えながら、机の上から物が落下し、棚が倒れ、物が砕けるのを眺めながら、建物が崩壊するのかもしれないという恐怖に初めて襲われた。揺れがおさまって外に飛び出すまでのことは今でも覚えている。ありがたいことに、建物はあの大きな揺れになんとか持ちこたえてくれた。

能登の地震の経過を聞いていると、あの阪神淡路大震災と重なることが多い。

現地に支援物資が届かない。
消防活動がままならない。
倒壊建物が多く救助活動が追い付かない。

同じことは阪神淡路大震災でも聞いたことである。
あれから、29年。
救助救援活動は改善されたのだろうか。


地震のあった夜、テレビから首相の言葉が流れてきた。

「明日の朝、九時半に対策会議を・・・」

その言葉を聞いてなんとなく首をかしげた。
翌朝の九時半。
遅くはないだろうか。

阪神淡路大震災の時は初動の遅れが指摘された。
東京にある政府はなかなか状況を把握できなかったようだ。

被災地では、東京の政府に状況を報告することは非常に難しい。緊急にやらなければならないことは、それこそ山積している。被災地の外から被災者に対して「状況を報告しろ」と求めるのは傲慢にさえ感じる。被災地に情報を求めないのだとすると、情報を収集する人を外から投入する必要がある。陸から、空から、海から、あらゆる方向からアプローチしなければならない。非常にスムーズに入れて大きな被害はなかったという結果であってもいい。逆に、現地に入るのが極めて困難でほとんどがなし得なかったということでもいい。どちらも、それが情報である。

道路などの交通網が寸断され、あるいは渋滞により被災地に入るのが難しいということは、既に29年前に経験した。今回の地震で同じ話を聞いたのが2日目だったか、3日目だったか。それを聞いたとき「今頃?」というのが印象だった。平時の手段で被災地に入るのは難しい。それは、29年前にわかっていたはずである。

もちろん、今回の地震と阪神淡路大震災にも違いはある。一つは地震発生の時間である。阪神淡路大震災は午前6時前。今回の能登の地震は午後4時過ぎ。阪神淡路大震災はこれから夜が明けようという頃であり、能登の地震は日が暮れようという頃である。

日が暮れてからの救援救助はさらに難しい。被災地は停電していることも多く、真っ暗である。真っ暗というのは、自分の足元だけでなく自分の手さえ視認できない。もちろん灯りは持っているだろうが、視界は限られる。加えて、道は土砂が崩れ地割れしている。足元が覚束ないだけでなく二次災害も懸念される。

もう一つに、大津波警報が発令されていたことがある。阪神淡路大震災では地震発生の4分後に津波がないことが気象庁から報告された。能登地震との大きな違いである。いかに訓練された救助隊員であっても、まさか津波に立ち向かうわけにもいかない。しかもその津波警報がなかなか解除されない。救助が遅れる大きな要因になっただろう。

それでも、と思う。

それでも、その日の夜間に少しでも状況を把握できなかっただろうか。もう少しでも現状把握に尽力できなかっただろうか。そうすれば、夜が明けると同時に道路の開通に踏み出すこともできたのではなかったろうか。津波で海からのアプローチが困難であれば福井、岐阜、富山など内陸から被災地に入ることを試みることはできなかったろうか。そう思えてならない。それは素人の浅はかだろうか。

被災地の映像では家屋倒壊がいくつもあった。地震の発生は元旦である。家族親類で団欒していた家も多かったと思われる。倒壊家屋の下にどれだけの人が閉じ込められているのだろう。その人達にとって、その夜は過酷だ。動けない空間に冷気は容赦なく押し寄せる。だが、いつまでたっても救助活動が見られない。狭い空間で寒さに凍えながら何を思うだろう。そう考えるだけで居たたまれない。被災地へ入る努力をもう少し頑張れば、もう少しでも早く被災地へ入ることができれば、救助活動ができたのではなかろうか。その思いがどうしても拭えない。歯がゆい。もどかしい。

阪神淡路大震災は倒壊建物の下敷きになって亡くなった方が多い。だが一方で、救助された方も多くいたのである。
地震発生から15日間に救助された人は1,891名。
その内の90%である1,702名の方が最初の4日間で救助されている。特に、地震発生当日に救助された方の生存率は80.5%。以降、翌日は26.5%翌々日は21.8%72時間が過ぎると5.9%に落ち込む。地震発生当日に1日で救助した人は600人。そのうち、500人弱の人たちが生きて救助されている。能登の地震でも、私たちの見えないところで救助活動は行われていたかもしれない。でも、日に何人の方が助け出されたのだろう。数百人、いや数十人にも達してはいないように見える。今回の地震は北陸であり夕暮れであり、よりいっそう寒さが厳しい。その夜の救助活動は生存率に大きく影響してはいないだろうか。


もう一つは消防活動である。

消火栓が使えない。
消防車が入れない。

消火設備が破損して使えないという状況は29年前にもあった。いや、それだけではない、100年前もそうだったのだ。関東大震災である。

関東大震災で火災があれほどに広がったのは、一番には接近していた台風の影響もあった。風が強く火の粉は遠くまで飛ぶ。延焼速度は速い。阪神淡路大震災の時はあまり風がなかった。風が静かであったことが延焼を押し止めたという話しもある。関東大震災と同じくらいの風であったらどうなっていたか。建物が倒壊すると火災になりやすい。割れた窓ガラスは火の粉を防いでくれない。落ちた瓦も火の粉を防いでくれない。普段なら止められる延焼も防ぎきれなくなる。さらに消火設備が使えないとなると燃えるに任せることなる。

阪神淡路大震災と関東大震災を比較して出火率はあまり変わらなかったそうだ。1万世帯当たりに2、3件だという。飛び抜けて多いようには見えない。さらに、出火原因は火であるとは限らない。電気である。漏れたガスに電気が引火したなども少なくない。地震がいつ発生するのかもわからない。火災の発生を少なくする方法も難しいように思える。だとすると、どれだけ延焼を食い止めることができるかどうかが鍵となる。

被災地の消防力は低下する。消防隊員自身が被災者である上に、消防救助を必要とする場所は膨大である。さらに消火設備が破損するとなると、通常の消火能力は望めない。そのことを前提として周辺地域や自衛隊による消防活動を計画できないものだろうか。被災地を支援するというようなバックアップ的な位置付けではなく、もっと積極的に消防活動に取り組むような。

また、火災の延焼対策として燃え止まりという考え方がある。阪神淡路大震災での燃え止まりは、線路、河川などだった。震災後の復興で、要所要所に公園のような空間を設けることが推奨された。燃え止まりである。

空き地のような空間は簡単に作ることは難しいかもしれないが、防火壁というものもあるそうだ。古くからの街並みには景観を重視されることも多いかもしれないが、景観を損なわない防火壁なども考えて設置するなども有効かもしれない。


災害対策には時間毎にフェーズがある。

フェーズ1:緊急対策
一命でも多く人命の安全を確保すること。

フェーズ2:応急対策
被災者の生活の安定をはかること。

フェーズ3:復旧・復興対策
被災者の人生の再建と地域の再建をはかること。

しかし、この前にさらにフェーズ0があるという。

フェーズ0
災害対策本部の設置

災害対策本部は阪神淡路大震災でも設置された。だが、機能しないのだ。一つは、要員が集まらないということである。要員が被災者であること、被災者でなくても被災地外から被災地への交通手段がないことにある。さらには場所、資材も確保できない。庁舎などが無事であったとしても庁舎内は物がひっくり返り散乱した状態である。まともな業務はできない。さらに、市民やマスコミからの電話が殺到した。その対応に忙殺された。

災害発生初期は、救助救援やボランティアなどの外からの支援を制限される。それは被災地での受け入れが整っていないからだという。そのことについて、いつもなんとなく疑問を覚える。外から人員を投入して、早急に受け入れ体制を整えてもらえないだろうか。

自衛隊機で荷物を運び入れ、大型テントを設置し、通信機器、パソコン、及び周辺機器、ドローン、カメラ、マイク、自転車、バイク、薬、その他自活できる一切を持ち込む。やることの優先順位は予め決まっていて順にこなす。最優先は交通網の確認。必要なところから順に修復支援を要請する。道路が開通できれば外部からの支援救助救援も入りやすくなる。同時に被災状況の確認。救助部隊が到着でき次第どこにどれだけ振り分けるのかを把握していく。さらに不足物資の確認。そして支給依頼。また拠点から各被災者に支給する手段の確立も必要である。大きな張り紙、もしくは防災無線、もしくはネットで作業内容の告知、報告する。何のために来て、何をしようとしているのか。それがわかれば被災者の安心感にもつながり勇気づけられもするだろう。時には被災者に情報提供や救援救助活動の支援を求めるのもよい。

阪神淡路大震災までは震災対応として次のように考えられてきた。

電力1日、水1週間、ガス1カ月を機能停止期間

確かにこの程度ならなんとか凌げそうだ。だが、実際は違った。どうだったのか。

電力:110万世帯で停電、全面復旧まで6日
電話(NTT):28.5万回線で不通、全面復旧まで16日
水道:ほぼ全域で断水、全面復旧まで68日
都市ガス:85万戸で供給停止、全面復旧まで85日
JR神戸線:住吉灘間で被害多く、全面復旧まで75日

なんとかなるというレベルを超えている。

短縮する工夫も必要かもしれないが、おそらくそれは簡単ではない。これだけの時間を要すると考えた方がいい。


今回の能登の地震に対する対策として、自衛隊の投入が少ないのではないかという意見もある。私もそれを感じた。

阪神淡路大震災

阪神淡路大震災の時にも自衛隊の投入が遅れたという指摘はあった。その時の自衛隊活動はどうだったろう。

1/17 発生当日
陸上自衛隊:3,300人が人命救助等、ヘリコプター57機が緊急輸送等
海上自衛隊:護衛艦、輸送艦等15隻925人

航空自衛隊が何故入っていないのか。知事からの派遣要請が抜けていたからのようだ。

東日本大震災

では東日本大震災はどうだったろう。
数値の具体性には欠けるが興味深い資料がある。

国土交通省の参考資料

参 考 資 料 (目次)https://www.mlit.go.jp/common/001124783.pdf

人数が10倍くらいになっている。さらに活動開始も素早い。速度、規模ともに圧倒的に違う。阪神淡路大震災の経験を生かしたようである。

令和六年能登地震

そして、今回の能登の地震である。
自衛隊への派遣要請は次のようにある。

1月1日 16時45分 石川県知事 要請先:陸自第10師団(守山)

1月1日についてはわからなかったが、1月2日については次のようにある。

本日の活動内容
○活動人員:陸海空自衛隊 約1,030名
○航空機:15機(回転翼13機、固定翼2機)
○艦 艇:5隻

https://www.bousai.go.jp/updates/r60101notojishin/r60101notojishin/pdf/r60101notojishin_02.pdf

遅いと言われた阪神淡路大震災よりもなお遅い印象が拭えない。

自衛隊の災害派遣には次の三種類があるそうだ。

①都道府県知事などの「要請に基づく派遣」(自衛隊法83条2項)
②自衛隊の施設や部隊の近くで火災などの災害が発生した場合、部隊の長の判断で派遣できる「近傍派遣」(同3項)
③緊急に救助が必要と認められるのに、通信の途絶などで都道府県知事などと連絡が取れない場合には、要請がなくても部隊を派遣できる「自主派遣」

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/22302?layout=b

阪神淡路大震災のときは、世論は自衛隊慎重論が強かった。ただ、同震災の状況を見て自衛隊の災害派遣に対する見方はずいぶん変わったようだ。東日本大震災では自主派遣もあったようだが、それに対する批判はあまり見られない。

阪神淡路大震災、東日本大震災、そして今回の能登の地震。それぞれの災害において自衛隊の災害派遣を決定したトップがどこにあるのか詳しくはない。だが、今1月1日にもっと動けたのではないか。何故動けなかったのだろう。


参考



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