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お墓参りは、亡き人と対話する時間。

一年ぶりのお墓参りに、地元北海道の興部(おこっぺ)町に行ってきた。
今年2月の一周忌はコロナウィルス感染が広がり始めた頃で参加を取りやめたから、興部に行くのは実家を手放した昨年9月以来だ。

実家を売却する時も体調を崩してしまったし、2月の一周忌の前にも実は具合の悪さを感じていた。
元気で普通に戻った顔を見せなければいけない、という無言のプレッシャーの中に行く自信がなかった。
コロナ流行は参加取りやめの大義名分と言っていいかもしれない。

行くなら自分のタイミングで、人の目を気にせず一人でお参りしたいと思っていたので、今回は「感染リスクを減らすために誰にも会わない」と決めて行くことにした。

想像していた通り、羽田は人はまばら、紋別空港(これはいつでも)も泊まったホテルも人はすかすかで、感染リスクも感じられず休養するにも最高の環境だった。

コロナで東京に閉じ込められていた身を、牧草地のあざやかな緑が目を癒してくれたし、乾いた涼しい風が汗をかき疲れた体を冷ましてくれた。

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自分のペースで懐かしい海の匂いを楽しみ、誰もいないお墓にぼーっと佇み、牧草地を車で回ってなだらかな丘にいろんな種類の緑が織りなす景色を眺めた。

そこかしこの風景に、あらゆる記憶の断片が眠っていた。
それらが次々と浮かんでくるのを淡々と眺めていた。

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母を失い、父を失い、生家を失い、この土地との物理的なつながりのほとんどを失った。
残るのはお墓と、何軒かの親戚くらいだ。

それなのに、なのか、それだからこそ、なのか。
記憶の純度はかつてないほど高まり、この土地の豊かさを生まれて初めて曇りなく受け取った気がした。

東京に戻ってからは、久しぶりに悲しみと共に過ごしている。
父が私に与えてくれていたものを、もう与えてはくれないのだということを改めて認識する頃合いなのかもしれない。

まだ一年半、もう大丈夫と周りに証明したくなる気持ちも人並みにあるけれど、悲しいものは悲しいのだ。

こういう気持ちを、周囲の人に表明するための機会や習慣があればいいのになあ、と思いながら、ただ悲しむ。

その変化に私がなるのだ。

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