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諏訪敦「眼窩裏の火事」と父

先日、諏訪敦さんの展覧会「眼窩裏の火事」を見に
バスに揺られて府中市美術館まで行ってきた。

https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakuten/2022_SUWA_Atsushi_exhibition.html

諏訪敦さんは写実絵画の第一人者で
そりゃもう写真みたいに精緻な絵を描くのだけど
私が特に見たかったのは「大野一雄(100歳を迎えた)」という作品だ。
http://atsushisuwa.com/

100歳をむかえた舞踊家の大野一雄さんが
白髪と皺とシミと、あらゆる加齢をその身に宿して
ぽっかりと口を開けて寝ている絵だ。

テレビで山田五郎さんがこの作品を紹介していたのだが
なんだかすごいギョッとしたのだ。

この絵は見てはいけないもの、世の中に出してはいけないものの類では……?

別に、おじいさんが寝ているだけなので
これが不適切な表現かどうかをAIに判断させたら絶対にひっかからない。
もちろんそうだ。

だけど、私としてはこの絵が女性器より禁忌のように感じてしまう。

多分、老いがあまりにグロテスクだからだろう。

父の姿

私の父が弱っていよいよ歩けなくなり車いすを使いだしてから
父は外に出るのを嫌がった。
病院通いなどで遠くへ出かけてしまえば渋々車いすに乗ったが
ちょっと車いすに乗って近所を散歩、というのをとても嫌がった。
母もそれに同調し、父はほとんど家にこもることになってしまった。

こんな姿を人に晒したくない
老いて弱々しくなった姿を近所の人が見たらどう思うだろう、
恥ずかしい、見せたくない、見られたくない。

私は反対した。

人は誰しも年をとるんだから、恥ずかしがることない!と。
それで日の光を浴びずに、家に閉じこもる方がよっぽど良くない!と。

そうこうしているうちに父は何度も入退院を繰り返し
ますます弱り、痩せ、車いすにも座れなくなった。
そこまできたときの父の姿は
老いさらばえた姿は恥じゃない!と言っていた私でさえ
家族であり身内である私でさえ
「目にしちゃいけないんじゃ…」と感じさせる姿だった。

生きているのに、即身仏に近いというか。
「おじいさん」で想像するのほほんとしたイメージとは別物の
今まで見たこともない人の形。
近所の目が…という以前に
生物として目にしてはいけないような気がする、という気持ちになった。
もしかして「尊厳」というものを傷つけているような。感覚。

人ってこんなになってしまうんだ、という驚きもあった。
足の骨というのは丸い棒状だと思っていたが
父の膝から下には、積み木みたいな四角い角のある骨の形が浮き出ていた。
人体のなかに、ほぼ直角の角度をもつ、人工物のような形状の骨があるって
私は初めて知ったのだが
それを単純な発見として人に話すにはちょっと不謹慎というかショッキングというか。
「日常」とか「家族」とかそういう話題の延長ではない、
異様な世界に私たちがいる気がした。

大野一雄さん

この100歳を迎えた大野一雄さんも、ある種の禁忌のように見えたのだ。
もちろん即身仏ほどまで痩せてはいないのだけれど
世界的に有名な舞踊家である大野一雄さんが
老いて変わり果てた姿。もう踊れない姿。
その姿にギョッとするのは私だけじゃないはず。

しかしそれをあえて描いたのにはこれまた驚きのエピソードがあった。
息子さんである大野慶人さんが
「老いさらばえた父に花があるのか知りたい」というような旨を語り
それに諏訪さんが応えて、この絵を描くことができた、と。

花?花か…。

私はその話を聞いて
老いた大野一雄さんに、その絵に、「花」があるのかこの目で確かめたい!と思い、府中くんだりまでやって来たのだ。

「わたしたちはふたたびであう」

絵を前にすると、やっぱりギョッとした。

容赦がないのだ。

たとえば大野さんの口もとに笑みが浮かんでいたりとか
救いのようなエクスキューズのようなものが描かれてあれば
きっと私はすぐにその心の落としどころにすがりついただろうけど
もちろんそんなゴマカシなどない。
例外なく、配慮なく、意図なくそのまんまを精緻に描く。
ただひたすらに、ある種誠実な写実性が追求されている。

シミだらけの手は肉が落ち、血管と皺がまぜこぜになり黄ばんでいる。

あぁ父の手にそっくりだ。

その手はゴワゴワとしていて、温かくないのだ。
かといって死体ほどの冷たさもない。
生体と死体の間の体温をはっきりと思い出した。

その手が置かれているのは、心地よさそうなビロードの布団だった。
部屋を温めても寒い寒いと言い
湯たんぽをいれたら低温やけどしそうになり
せめて、と肌触りの良い布団を買ってきた。
そんな記憶がよぎり、懐かしい気持ちでいっぱいになる。

葬儀の日、やってきた人たちは父が元気だった頃の思い出を語った。
彼らの口から語られる父はとても活動的で勢いが良く飛び回っていた。
そうだ、そうだ、父はそんな人だった。忘れてた。

…だけど、私にとっては介護される父の姿のインパクトが強すぎた。
家の奥に隠されて横たわり
この世のものなのか、あの世のものなのか曖昧な姿が
私にとっては父となってしまった。

この展覧会は3章からなっていて
この、大野一雄(100歳を迎えた)があった章は
「わたしたちはふたたびであう」と名付けられていた。

不思議なことだ。
父が眠っている墓地にも
元気だった父の写真が飾られている実家の仏壇にも
父の気配を感じることはなかったが
この絵の冷たそうなぬくもりの手を見たとき
私は父と久しぶりに会ったような感覚になった。

もしかして私は父に会いたくてここに来たのかもしれない。

「花」はあるのか

きっと作家は大野さんに花があると1mmも疑わずに描いていると思う。
だからこそ容赦がなく描けるのだ。
その絶対的な確信がとても力強く、逆に尊厳を感じてしまう。

花はあったのだろうか?

そりゃあったのだろう。
画面越しに私の目をとらえ、府中くんだりまで来させて
その場で匂いや温度の記憶を思い出させるなんて
最初から大野さんは「花」そのものでしかなかった。

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