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仕事のはなし① 「煙突屋」

年長のとき卒園文集に、将来の夢を書くことになった。
「将来なりたいものを書いてごらん」と先生に言われたけれど、“将来なりたいもの”の意味がわからず私は「うさぎ」と書いた。
出来上がった文集に、みんながパイロットとかケーキ屋さんとかお医者さんとか書いてるのを見て、そういうことかと恥ずかしかった。

大人になって、世の中にはいろんな仕事があるな〜とよく思う。
子どものときはこんなに色々な仕事があるなんて、知らなかった。
あの頃子どもたちが描いてた「将来の夢」はインデックスみたいなもので、社会に出てみれば種々雑多、様々なことでお金を稼いでるひとがいた。

私は現在、細々とライター業を続けながらラーメン屋の経営をしてるのだけど、夫は私と出会った頃、廃品回収を営んでいた。
その前はHP制作、その前はバスト吸引器の販売、その前はバー、古着屋、パチスロのスロット販売、窓拭きの仕事…と遡って聞くうちに、仕事ってそんな簡単に変えていいのかと別の驚きが湧いてくる。

ちなみに私の母の実家は、煙突を作る仕事だった。お風呂が各家庭に設置されるようになったのは昭和の真ん中頃で、それまではみんな銭湯へ通っていたそうだ。
だから戦後すぐ〜高度成長期の銭湯建設ラッシュの波に乗り、煙突をたくさん作ってよく儲けたらしい。
煙突はいわゆる“高いところに登る仕事”なので、当時は労災などない代わりに日当がよかった。
トラックで大阪の西成・あいりん地区へ行き、荷台から「◯◯円〜◯◯円〜!」と大声で叫ぶと、わらわらと日雇い労働者たちが集まってくる。そのまま腕を引っ張って何人も荷台に乗せては現場へ向かった、と昔母の父が話していた。
高度成長期が終わり「おうちにお風呂」が定番化されると、煙突建設の仕事は減った。けれど、お風呂がない家庭が多い地域もまた西成だった。西成の銭湯はいつも家族や労働者で賑わい、利用者が多いぶん、煙突の修理や掃除で呼び出されることも度々で、いつの時代も西成は煙突屋にとってお得意様だった。

ところで私の兄は短大を卒業後、就職せず家で夏休みの子どものように過ごしていたのだけれど、(兄については以下記事参考)

母はゲームや幼児番組に夢中になる兄を心配し、時々自分の実家である煙突屋にアルバイトに行かせた。
私がちょうど大学に入学した頃だ。
私は、規則正しい学校生活からも受験勉強からも解き放たれ、大学という新しい世界で会う人・触れるものに夢中だった。
センスの良い友人とミニシアターへ行き、カフェでお茶して、男慣れしている友達に初めてクラブに連れて行ってもらった。自分が住んでいた場所から、どこまでもどこまでも世界が広がっていくようだった。
サブカルチャーも社会問題もインドカレーもごちゃ混ぜに取り込む、闇鍋のような日々のなかで「西成」というワードが挙がった。
大阪出身でもないXXちゃんが「“あの”西成」に行ったことがあるとかないとか。

ニシナリ?

噂で聞いたことはあるけれど、行ったことはない。
大阪人なのに知らない場所があるのが悔しくて、家に帰ると私は「西成に行ってみたい」と兄に伝えた。兄は車の免許も持っていたし、毎日暇そうだったので連れて行ってもらうには最適だと考えたのだ。
この頃、私は家でほのぼの過ごす兄を完全に見下していた。
男女の駆け引きも、腰に響くクラブの低音も、明け方の街のエモさも知らず、兄の世界はほぼ家で完結していた。
タクシー兼用心棒代わりという思惑を後ろ手に抱え持ちながら、「お願い!」と兄の前で手を合わせて、車で西成へ連れて行ってもらうことになった。

千日前通りを越え、芦原橋あたりになるとそれまでの騒がしさが嘘のように消え、白けたような雰囲気が広がる。まるで過剰に華やかな街を嘲笑うみたいだ。
歩道ですら行き交う人々は少なく、さみしいところやなと思った。
さらに南に車が進むと、少しずつ背を丸めて歩くおじさんが増え始め、「ここが噂の西成やな」と察した。
路肩のあちこちで、おじさんが座って何をするともなくぼーっとしている。
兄は車のスピードをゆるめた。
20キロほどの速さでノロノロと進む車の窓の横を、何人ものおじさんが破れたような灰色の服を身に付けて、さらにゆっくりどこかへ向かって歩いたり立ち止まったりしていた。

来たらあかんところへ来てしもた、と思った。
街を見たいと言いながらそこに住む人々を覗き見に来た自分の浅はかさを恥じた。と同時に“浮浪者”が怖い気持ちもあった。

そんな時、ひとりのおじさんが車の前に来ると、急に車を横切るように路上にゴロリと寝転んだ。
まじで。どうすんの。
焦る私を横目に兄は車をアイドリングしたまま、黙ってハンドルを持っている。
私はなすすべもなく、兄とおじさんを見比べては焦ったようにキョトキョト首を動かした。
「クラクション鳴らしたら?」と言いかけた寸前で、兄はいつもの純真無垢な目で私を見た。

「普通のところではな、車と人やったら車の方が強いやろ。でもな、ここは車の方が弱くて人の方が強い街やねん。だからクラクションは鳴らさんと、待っとこか」

ハッとした。
兄は煙突屋の仕事で度々来ていたのだ。
西成のことをよく知っていたのに、事前に教えることもなく、人の生活やから見学するようなもんじゃないよ、と苦言も言わず、私を西成に連れてきてくれたのだった。
好奇心や野心で動く私よりもっと優しく大らかに、兄は兄の世界を広げていた。
おじさんが立ち上がるのを待つ間、穏やかな兄の気配が自分に染み込むのを感じながら、私は西成をまた別の目で見たのだった。

煙突屋はコロナが始まる少し前に廃業となった。
最近では煙突を建てることよりも壊す仕事の方が増えていたから時代の流れということなのだろう。
兄は今は「バフ屋」で働いてる。
それってなんなん?と聞いたら、純真な顔で「あのな、人が何人も入れるくらいめちゃくちゃでっかい管を磨くねんで」と言っていた。
世の中にはいろんな仕事があるねんな〜とまた、つくづく思う。


今年は「仕事」に纏わるあれこれをnoteに綴ろうと思ってます。
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